平成二七年一〇月三〇日
平成二七年度 原子爆弾被爆者実態調査付録
(被爆体験等を通じて後世につたえたいことなど、七〇年を振り返っての思い)
昭和二〇年八月六日、私は広島市皆実町三丁目の自宅で被爆しました。父は当時広島軍需監理局の官僚で、当日は健康不良の母に代わり朝食の準備中でまだ家にいました。被爆で家は大破し父は全身九二ヶ所のガラス傷を受け似島の収容所へ収容されましたが、母と妹、二人の弟は無傷、私は腿に二ヶ所のガラス傷を受けるにとどまりました。戦後、爆心地の北〇・五~一キロメートルの基町に建てられた市営住宅に昭和二六年八月まで居住しました。その後父の転職、私の大学生活・就職などのため、十数回の転居を重ね、現在は富士山北麓の静かな自然の中で老後を過ごしています。
父は被爆当日から重傷で出勤できず、被爆に伴う事務所の残務整理にも出向けず、代わって急遽出勤した部下の方々が原爆症で亡くなられたことへの懺悔かもしれませんが、被爆したことを一切口にしないばかりか被爆者健康手帳の交付を頑なに拒否し続けて、昭和六〇年に他界しました。
昭和六一年八月、旧軍需監理局時代の同僚の方より父の名を合同庁舎内にある合同慰霊碑に刻みたいとの申し出を受け広島を訪れた際、父の同僚の方より被爆者健康手帳の取得を強く勧められ、早速被爆当時在学していた皆実町小学校を訪れ、幸いにも学校に残っていた私の在学を証明する書類一式と在学証明書・卒業証明書の発行を受けました。帰京し当時住んでいた川崎市の所轄保健所へ被爆者健康手帳の申請について相談したところ、二人の証人が申請の条件との説明を受け、色々当ったが該当する方がいないので、そのまま放置しました。
昭和六二年、デンマーク資本の会社へ勤めることになり、多数のデンマーク人と交わる機会を得ました。来日したデンマーク人は必ず広島の爆心地跡への案内を求めました。原爆記念碑をはじめ資料館など長い時間をかけて見てまわるのが常でした。私が被爆者であることを知り被爆体験を語る機会も増えました。デンマーク本社へ行った際も被爆体験を披露する機会も増えました。私も被爆者の一人として被爆者活動に参加することの意義を考え始めていました。
平成八年に現役からのリタイアを機に、別荘として所有していた現住所をついの棲み処と定め移り住みました。同時期に被爆者援護法で、被爆者認定の条件として二人の証人が第一条件ではなく、被爆を証明する資料の添付が条件であることを知り、既に所有していた在学を証明する資料一式を添付の上山梨県庁へ申請し、被爆者原爆手帳の交付を受けました。同時に、山梨県原水爆被爆者の会に入会し被爆者活動に参加することになりました。
平成一四年八月、広島市原爆死没者慰霊式ならびに平和祈念式へ出席し、全国の遺族代表として献花する機会を得て、はじめて、被爆体験記をまとめ、平和祈念館へ収めました。その後あらゆる機会を活用し被爆証言を続けています。原爆展や集会の併設会場で、また小学校や中学校で被爆証言を続けています。
被爆証言を本格化して凡そ一四年、証言を通して訴える内容も変わってきています。当初は、原爆投下の残忍性や非人道性、被爆者が受けた苦しみや悲しみに対する政府責任の欠如などを訴えていました。しかし、いくら訴えても被爆者の声が世の中を動かすものになっていないことにもどかしさと虚しさが広がってきました。六年前プラハで、オバマ米大統領は核兵器を使用した唯一の核保有国の道義的責任に触れながら、「核のない平和で安全な世界を米国が追求していくことを明確に宣言する」と述べ、引き続き米ロ間で僅かですが核兵器の削減が実現しました。五年前のNPT準備会議では、核兵器廃絶を求める市民活動が評価されました。しかし、今年のNPTではアメリカの不同意により何らの声明も発表されない、過去の核兵器廃絶活動が否定されるような残念な結果となりました。
なぜ、このような結果を迎えたのでしょうか?
なぜ、被爆者の声が、願いが、訴えが核兵器保有国の指導者へ届かないのでしょうか?
私は、二〇一四年八月に放映されNHK番組「ヒバクシャからの手紙」を思い出します。番組冒頭、銀座を歩く人に「八月六日は何の日ですか?」の質問に対し、広島に原爆が投下された日と答えた人は僅か一人で、しかもその日が肉親の誕生日なので覚えているとの冷たい対応でした。原爆は日本人の心から遠いものになっているようです。一方被爆者の被爆証言には、被爆による苦しみや悲しみ、原爆投下したものへの恨みなどが滲み出ている画面が紹介され、他方アメリカのエノラ・ゲイ記念館からの放映では、原爆投下は戦争の終結に貢献し、以後の戦争被害を抑えた正しい行為であるとのアメリカ人の言葉が映し出されました。
被爆者は被爆者認識をむき出しにし、アメリカ人は加害者認識を正当化しているかに見えます。オバマ大統領が数年前の姿に戻っても、小間の世論からNPTの共同宣言に同意することはできなかったでしょう。数年前にオーストラリアで、日豪の遺族が戦争の恩讐を超えて慰霊行事を行っている情報を出します。日米が日豪関係と同じ様に、原爆の恩讐を越えて真に核兵器廃絶を求める姿に向かえないのでしょうか。
私は、被爆証言の在り方を変えようと思います。まず、核兵器の威力をできるだけ詳しく説明します。視聴者に核兵器の威力をよく理解してもらえるように、被爆の実態や被爆経験を証言したいと思います。被爆による悲惨さや悲しみについても、あくまで核兵器の威力や脅威をより知ってもらうためのものに限定し、決して、被爆を受けた恨みや責任を求める批判的な発言は戒めたいと思います。そして、もし、今地球上に存在している一七、三〇〇個の核兵器が短期間に使われたら地球上の大方の人々が死ぬであろう光景を視聴者と共有できる被爆証言にしようと思います。かような態度で証言を続けられれば、折角、友好関係を保っているアメリカで、加害者意識を抑え恩讐を越えて被爆者の言葉を聞いてくれるでしょう。その後ろには、被爆者と手を携えて核兵器廃絶の運動に共鳴してくれる時が待っているでしょう。アメリカ大統領も世論に支えられ、核兵器廃絶の道を選び、日米首脳会議で、サミットの席で、核兵器廃絶が討議されると信じています。私の命が燃え尽きる前にその日が到来することを願っています。 |