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救護活動を手伝って 
丸町 ヒデ子(まるまち ひでこ) 
性別 女性  被爆時年齢 12歳 
被爆地(被爆区分) 広島(間接被爆)  執筆年 2019年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 鈴張国民学校 高等科 1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●家族のこと
私の家は鈴張の農家でした。大きな農家で、父は、山の売り買いなどの商売をしていたそうです。胴巻きをして、あの頃は現金の取り引きですから、そこにお金を入れていたのでしょう。子どもながら、お父さんはお金を持っているなあと思っていました。戦時中も食料に困った記憶はありません。ただ、母は、ご飯をやわらかく炊いて、おかゆを食べているというふうに見せかけていました。子どもたちが周りから何か言われないように、気を遣っていたのだと思います。

家族は両親と八人の兄弟姉妹。三人の兄と、姉二人、私、妹二人です。長男、次男、三男は、全員兵隊に行っておりました。長男と次男は陸軍。三男は呉の海軍工廠です。

長女は、私より六歳上で、父の弟が東京の銀座で歯医者をしていて、そちらへ行っておりました。次女は四歳上で、山県郡のほうに下宿して洋裁学校に行っていたと思います。家には両親と、私と、三歳下の妹と六歳下の妹がおりました。三人とも鈴張国民学校に通っていました。私は当時一二歳で高等科の一年生でした。

●長覚寺の思い出
長覚寺へは、私は日曜学校に行っていました。住職さんがお話をされて、奥さんがオルガンを弾いて、いい声で歌われて、子どもたちに歌を教えていました。住職さんは足が悪いから、奥さんが支えて、幼稚園の先生みたいに活発にやっていました。日曜学校に行くと名簿があって、行った日はそこに桜の花びらをつけてくれます。私は真面目に通っていました。桜の花びらがずらっと並んで、それを、みんなの前でほめてもらって嬉しかったことを覚えています。家からは少し遠かったのですが、楽しかったから、いつも通っていました。

●勤労奉仕
あの頃は、軍隊が学校を使用していました。校舎には兵隊さんが入り、グラウンドには馬がつながれていました。下級生は、近くのお宮を寺子屋にして、そこに通って勉強しましたが、私たち高学年は、勉強していません。勤労奉仕で作業ばっかり。朝、学校に行っても、校舎には入りません。学校の鐘も兵隊さんの生活にあわせているので、先生がメガホンで集まれと言って、グラウンドの馬の近くに集まるんです。それで、今日はここの組はここの勤労奉仕へ行くという指示があって、作業に行きます。男の人たちは戦争に行って、元気な人はいないから、私たちのような子どもでも、今日は北へ行け、今日は西に行けと言われて。だから毎日、勉強道具は持たずに、お弁当だけ持って通いました。

奉仕は、農作業です。みんなで田んぼに行って、水はけをよくするためなのか、一メートルぐらい掘り返したり、そんな作業でした。男子が土を掘り返して、女子は掘った土を運んだり草をむしったり。夏に入ってもずっと作業が続きました。

●八月六日
八月六日は、きのこ雲を見た記憶はありません。ただ、その日の作業は中止になって、それで解散になったのがとても嬉しかったことを覚えています。何が起こったかも分からないまま、子どもなので、みんな喜んでいました。夏になっても作業に行くばっかりで、川で泳ぐという夏の楽しみもなかったから。男子も女子も一緒に、何人かで、近くの川で泳いで遊んで、それから帰ったのです。

その日の午後いったん家に帰ってからのことです。どこからどう連絡が回ったのか、高学年の生徒が集められて、周りの家でうちわを集めて長覚寺へ持っていくように言われました。あの頃、家にうちわ一本か二本ですよね。近所をまわって、うちわをもらって歩きました。

大人たちは、広島に爆弾が落ちたというようなことを言っていました。わが家は豊平のほうに行く街道沿いにあるのですが、けがしたような人、着る物がぼろぼろになった人が、休ませてください、水をくださいと言ってやってくるんです。田舎の家なので広い縁側があるから、そこで休んだり横になる人を、私は少し離れた所から見て、何が起きたのだろうと思いました。戦後何年かして、あの時助けてもらって、こんなに元気になりました、恩人だと言って、わが家に来られた人がいたのを覚えています。

夜、親は、ラジオで聞いたか人から聞いたか、何かこれは普通の出来事じゃないというようなことを言っていました。

●長覚寺で救護活動
学校から、長覚寺に手伝いに行くように言われたのだと思います。若い人は兵隊に行っていないので、年寄りも子どもも総出だったのでしょう。

翌日、長覚寺の前の国道には、トラックが次から次へ、人を運んで来ていました。運ばれて来た人を降ろして、むしろを敷いた上に寝かせるんですが、悲惨なことがどんどん目に入ってきました。

一台のトラックで一四、五人でしょうか、それが次から次へ来て、何十人も降ろしていきます。むしろの上には、亡くなった人も、やけどの人もいっぱいいました。ほとんど全裸です。男も女も。学生さんや子どもも。衝撃でした、子ども心にも。

赤ちゃんをだっこしたお母さんがいて、お母さんはほとんど裸で、もう亡くなっているのに、赤ちゃんは生きていました。お母さんのおっぱいにしがみついていたのを、みんなが、まあかわいそうにと言って、運んでいきました。

着る物はほとんど焼けているのに、名札のところだけが焼け残って、二中の生徒さんと分かった人がいた記憶があります。もう、本当に悲惨でした。

長覚寺の本堂に入ったら、中は運ばれてきた人でいっぱいで、足のやり場もないくらいでした。あちらでもこちらでも、水くれ、助けてくれの声ばかりです。うちわで、あおいであげました。それくらいしかできませんでした。

どうしてあげることもできません。本堂は足のやり場がないほどいっぱいです。縁側は亡くなった人を運び出す作業に使っていました。

原爆に遭われていたからでしょう、緑色のようなものを、がっぽがっぽ吐くんです。そして、水くれ水くれって。水分がなくなるのと、熱いのと両方で、水くれと言われたと思うんです。

軍医さんでしょうか、お医者さんが、たった一人いました。大きな一斗缶にやけどの白い塗り薬が入っているのを、板切れですくって、その板切れでやけどの所に、ぺたぺた塗っていくんです。医者の先生が薬を塗っているのに、誰も手伝う人がいません。私だけが手伝って、先生のあとをついて歩いていました。寝ている人をまたぎながら、綿や薬の缶を抱えてずっとついて歩いたんです。先生が薬を塗った後に、私は綿を当ててあげました。綿といっても、脱脂綿も何もないから、布団の綿です。集めてきたんでしょうが、布団の綿は、黒くて、水分を吸収しないんです。苦し紛れに動き回る人もいるし、あちらからもこちらからも、水くれ水くれ言う声がしていました。

暑いからウジが湧くんです。やけどの人たちが寝ているところにいっぱい出てくるんです。手当てをするのに、体をちょっと動かしたら、ウジがいっぱい落ちてくる、あっちでもこっちでもいっぱい出てくるんです。ウジを取ってあげても全部は取りきれません。足もとのウジは踏んで歩きました。

ずっと後になって、同窓会に行ったら、男子に「あんただけで。お医者さんを手伝って、原爆に遭うちゃった(救護被爆した)のは。わしら恐ろしゅうて行きゃあせん、見るのは見よったけど、あんただけよ、お医者さんについて手伝ったのは」と言われました。子どもだったので、ほかの人がどうしていたかは、さっぱり目に入っていませんでした。

九日くらいまで長覚寺に行きました。朝からお弁当を持って、通いました。毎朝来てみると、いっぱい亡くなっていて。亡くなった人にむしろを巻いているのが、頭も足も出ているような状態で、それをお寺の階段で降ろすのに、一人で引きずり降ろすんですよ。若くて力のある人がいないから、抱えてあげることができないんでしょう。むしろのどこかを持って、亡くなった人を、がたがたっと引きずり降ろすのを見ました。本当にひどいものでした。

私は、一番ひどいときに救護活動に行きました。そのあと、行かなくてよくなりましたが、お寺の前には、収容された人の名前が張り出してあって、亡くなった人はチェックしてあるんです。それを見たいような見たくないような気持ちでした。家族を捜しにやってきた人たちが、名簿を見て、「ああ、あった、あった」とか、「ここにもない、どこにおるのか」と言っていたという話を聞きました。

長覚寺には、家族では私だけが行きました。母たちも、炊き出しか何かしていたと思いますが、長覚寺の救護活動に行ったのは私だけです。そのあと体調が悪くなったというようなことは、なかったと思うんですが、食欲はありませんでした。家に帰っても話したくない気持ちで、話さなかったと思います。子ども心にも、あんなだった、こんなだったと話すことじゃないと思っていたんでしょう。

●終戦
それから終戦になって、兄たちが戦争から帰ってきました。一番下の兄は入隊してわずかだったので、すぐに帰ってきました。長兄がそのあと帰ってきましたが、二番目の兄がなかなか帰ってきませんでした。母が毎日、陰膳をしていた記憶があります。いつまでも帰らないし、何も音沙汰がないので、もしかしたら亡くなってるんじゃないかと。それが、数年後にひょっこり帰ってきました。軍で通信の仕事をしていたのですが、満州からソ連の方に連れていかれて、抑留されていたそうです。シベリア抑留というんですかね。

戦争が終わって、学校は九月から始まったんでしょうね、軍隊も馬もいなくなっていました。学校に行っても、みんな原爆の話ばっかりしていました。授業をするにも、教科書も何もないから、先生の話を聞いて、ニュースを聞かせてもらうくらいでした。学校は、私たちのときに新制中学になりました。

●看護の道へ
一五歳まで鈴張にいて、それから私は、西条の国立広島療養所の附属看護学校に入ることになりました。三年制の甲種の看護婦養成所です。初めて鈴張を出て、行ったこともない土地に行くことになったんです。

寮生活で、部屋は四人部屋。試験のときは、部屋で落ち着いて勉強できないから、教科書を持って、山に行って勉強していました。まわりはマツタケ山なので、季節になるとマツタケの匂いがぷんぷん。試験は一六教科ありました。その後、国家試験に受かって看護婦になりました。

そのまま国立療養所で二、三年勤めました。戦後、陸軍や海軍の病院は全て国立病院となりました。当時の医師は全員が元軍医でしたから、すごく厳しかったです。軍靴をかちっかちって鳴らして歩く医師が通ったら、私たちは立ち止まって「ご苦労さまです」と言っていました。それから親が、もう嫁に行く年頃で、洋裁やお茶やお花の習いものもしないといけないというので、鈴張に戻りました。

二二歳で結婚して、女の子と男の子を産みました。広島にいて、そのあと可部に来た頃に、「せっかく看護婦になったんだから仕事をしたらどうですか」と声をかけてくれた人がいて、それがきっかけで看護婦をしました。子育ての頃は開業医で働いて、それから老人ホームで働きました。三七歳頃。履歴書に三七歳と書いた気がします。老人ホームは長くて、五九歳まで勤めました。

好きで、看護婦になったというわけではないんです。看護学校に行くということは親や兄が決めて、私は遠い所に行くのが不安で、泣き泣き家を出ました。でも、今から思えば、運命というか、看護の仕事に縁があったんでしょう。長覚寺で、私だけが軍医の先生のあとについて手伝ったとき、最後にその先生が、「よう手伝うてくれたのう」と、ひとこと言ってくれました。あの出来事が、その後の看護婦という職につながったのかもしれません。

●被爆者健康手帳
原爆手帳(被爆者健康手帳)は持っています。長覚寺の救護活動のとき、うちわを集めてきなさいといった先生は、仲本マツヱ先生です。私はいつも仲本先生と一緒にいました。戦後、仲本先生が同窓会をしてくれて、「私が引率して、被爆者の救護にあたらせたという証人になるから、原爆手帳を申請するように」と言ってくれたんです。昭和四九年です。手帳はすぐに取れました。

主人(隆夫、昭和二年生まれ、被爆時一七歳)は入市被爆です。崇徳中学の付設科の生徒で、その日は学徒動員で呉の海軍工廠に手伝いに行っていたそうです。原爆が落ちて、広島は悲惨なことになって、交通が遮断されたから、自宅のある緑井村まで線路をずっと歩いて帰ったと言っていました。主人とはお見合いで結婚しました。お互い、原爆を体験しているので、そこは気がねがありませんでした。

親の言う通りに結婚したのですが、いい人に恵まれてよかったです。主人は、定年後、何人かの友達と碁や何かをしていたときに、原爆手帳をもっていないと分かって、あの日一緒だった友達が、「わしらが証人になるから取ったほうがいい」と言ってくれて、取りました。

そのあと間もなくして、主人は脳梗塞で倒れたんです。でも、私も看護婦で少しは経験があったから、介護ができてよかったです。介護は長かったです。四年前に亡くなるまで一〇年間介護しました。

●証言を残す義務
長覚寺のことは忘れられません。子ども心にも、こんなことが世の中にあるのかと、地獄だと思いました。それで、私がときどき話すのを聞いて、息子が、あの時のことを伝えるために、話を聞いてもらったらいいんじゃないか、原爆手帳もいただいて、長生きもしているのだから、原爆の証言を残すことが義務じゃないかと言うのです。

次の世代に伝えたいことは、ただひとつです。原爆に遭った人の、あの悲惨さを見ているから、二度と戦争はいけない、絶対に。本当に、親子や兄弟を引き裂くような戦争をしてはいけない、それだけですね。
  

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