●幼年時代
広島市堺町3丁目39番地において昭和5年11月20日に新述修一、フミの長男として誕生。先に男子が生まれたが2-3日で死亡。姉和子は昭和3年2月21日生まれ。
父修一は薬局を営み、当時は天満橋以北広瀬橋までの東川添いは市場があり、薬店も繁盛していた。11月20日はエビス祭りで市場出入りの人々も長男誕生で祝ってくれた。父40歳、母30歳。
幼稚園に入園するまでは全く記憶がない。姉の話では風呂に入るのに下駄を履いて行った記憶があるとのことから、昭和7-8年頃大改築されたと思う。物心のつく頃から父は次男なのに祖母が同居し、家族は祖母、父、母、姉、僕の5人で、いつも1人2人の女中さんと数人の店員さんがいた。
光道館幼稚園での記憶は丹那の桑原先生、いとこの子の浜永健ちゃん、瀬尾君、国光君ぐらいしか覚えていない。或る日、家の時計が狂っていたのか朝瀬尾君を誘いに寄ると今起きたばかりだとのことで、一人で行く。幼稚園の門は締っていていくら呼んでも誰も出てこない。帰ればよいのに当時は大変遠いかったのであろうか、2m位の門をよじ上って園に入った。後で大変だった。先生にはどうやって入ったか、怪我をしていないか等さんざん聞かれ、家にも連絡された。
幼稚園2年目の或る日健ちゃんと2人呼ばれて先生と共に光道館小学校の校長室に入り校長先生に紹介される。叱られるのかと思ったが家に帰り校長先生が西村清暁さんと分かる。当時昭和10年頃田中八重子さんと結婚されたものと思う。
幼稚園の帰りに堺町一丁目の文具店の兄弟に追っ掛けられて店の前を通るのが恐かったので或る日母が文句を言いに行った記憶がある。又その頃家では店の帳簿をしている母のひざに乗り乳を吸っていたこと、その乳にセンプリを塗られたこと、仕事をする母の近くの猿はしごにぶらぶら下がって遊んだこと、店先の荷物の上から落ちて額を3針縫ったこと等の記憶がある。
幼稚園の後期、近所の大きい子に連れられて当時工の字型であった相生橋の下でひざまで水に浸かりながら遊んだ。家、近所では子供達がタ方になっても帰らないし何処の家にも居ないので大騷動し皆なで捜し回り、やっと橋の下で見付け連れ戻されて大変叱られた。僕は次の日から高熱が続き幼稚園の先生が見舞いに来られ、出席簿に桜のマークを貼ってもらい嬉しかった。病気中初めて字の勉強をする。
家には電灯は勿論、電話、都市ガス、水道、地下水を汲み掲げる手動ポンプ、氷を入れる冷蔵庫、呼び鈴、金庫、自転車等が物心の付いた頃にはすでに在った。子供の自転車は2台あって幼稚園時代に補助車をはずして乗れる様になっていた。当時は道路で練習した様に記憶する。
●小学生時代
広島県師範付属小学校 入学試験は碁石の並べ変え、数の大小の比較程度であった。その後抽選があり2倍位の倍率だったと思う。赤くじを引いた時は子供ながら嬉しかった。3学年上の姉が県師に通っているので、僕は付小を受験しなかった。新しいランドセル、帽子、制服で写真館に行った記憶がある。
通学は遠いので大変だった。1週間位は母がずっと付き添い、その後は姉と一緒に小網町から電車に乗り専売局から徒歩で比治山下の学校まで30分かかった。帰りは当分の間父か母が迎えに来てくれるか、帰る時間がよい時は姉を待って一緒に帰った。往きは3年生までは姉と一緒だったが、帰りはそのうち友達も出来て時には土手町を通って稲荷橋電停から電車に乗ったり、友達によっては専売局電停から乗った。稲荷橋方面は結城君、専売局方面は中村君だった。(中村君は東洋工業不況時住友銀行から管理重役として出向していた。)
当時は定期券はなく小人用回数券であったため、何処からでも乗れた。大人5銭、小人3銭だった。4年生頃比治山橋が出来たので、バスで舟入経由にて帰ったこともある。
小学生になっても帰り道で、専売局方面は千田小学校の子供に追いかけられ、稲荷橋方面は荒神小学校の子供に追いかけられて恐かった。
担任は京極先生でよく面倒を見てもらった。2年生まで男女共学で以後女性と机を並べたことがない。
1年生で初めての「ヨミカタ」は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」でした。僕が読むと「チャイタ チャイタ チャクラガ チャイタ」となり皆に笑われた。家に帰り猛練習して「サイタ サイタ」と言える様になった。
3-4年の担任は七森先生で大変御世話になった。宮島への遠足の時、紅葉谷公園で友達と3人で昼食中大きい角を付けた鹿が近寄って来た。3人は弁当をそのままにして逃げ出したが、鹿は僕の弁当だけを食べて立ち去った。僕は悲しくなって泣き出し、これを見た七森先生は茶店でお寿司を買って下さった。
5年生になると学校が東雲町に移転した。2週間位毎日比治山下から新校舎まで全員壊れ物を手に持って歩いて運んだ。新校舎に着くと床磨きと校庭の草取りをする。当分帰り方が分からない為又比治山下まで歩く。そのうち的場町電停からの道が分かる。
6年生になると自転車通学が許され堺町から東雲町まで自転車で往復する。通学道は堺町-本通り-柳橋-東雲町だった。
冬は電車と徒歩だ。この時も、的場方面に帰る15名位が並んで歩行中、段原小学校の子供20名位が棒を持ってぞろぞろ付いて来た。僕は小さい方なので後ろの位置におり恐かった。その時篠田君の一喝で蜘蛛の子を散らす様に退散した。彼は当分の間英雄だった。5-6年の担任は山本先生で、まだ若く元気一杯の張り切り青年だった。子供の面倒をよく見る先生で、毎日夜5-6人を交替で己斐の自宅に呼んで習字を教えた。体育にも熱心で、夏には学校の裏の猿候川で皆が2Km泳げる様になるまで練習を行った。
学校行事として行う楽々園水泳大会で、僕はまだやっと1000m泳げる様になった状態で6Kmの遠泳に参加し4Kmまで泳げた。又、冬には雪のふる土手道を上半身裸で足は裸足でマラソンをした。勿論先生も一緒だ。
鉄棒も懸垂の記録を毎日書かせ、おかげで僕は24回のクラス最高記録を作ることが出来た。幼年時、毎日母のそばで猿ばしごにぶら下っていたので、腕が強くなったのだと思う。
5年生の時の重大事件は川喜多君の死亡だ。山本先生からクラスの中で信頼の出来る唯一の人だと評価された彼が、或る日学校で高熱を出し自転車タクシーを呼び早退した。次の日死亡。エキリだった。その頃可部恭彦君もエキリで急死した。僕もジフテリヤにかかり10日間位休んだ。そのため血清を打ち以後28歳までジンマシンに悩まされることになった。
管君は竹のぼり台の上で竹が腐っていたため、5m位の高さから落ち左足を骨折した。彼は現在も少し足が悪い。
5年生の12月8日には大東亜戦争が始まった。6年生の冬、全員進学受験校を決める。僕は広島高等師範付属中学校に決める。口頭試問と体力テストの2日間だった。口頭試問は戦争の絵を見せられて、それについての質問だったが充分な返答が出来なかった様に思う。体力テストは懸垂、逆立ち、重量物の牽引であって、これ等は良好だった。結果は合格。しかも県師から受験した9名全員合格した。合格発表の翌日(8日)の朝礼で初めて気分が悪くなり倒れた。前日の合格祝いでごちそうを食べ過ぎたためだった。
付中合格者は岡崎、金桝、可部、篠田、島田、茶村、難波、新述、福田の9名だ。
お別れ会での山本先生の演技には全員感心した。
●中学生時代
広島高等師範学校付属中学校 あこがれの付中だ。夢にまで見た横カバン。しかし戦時中なので、手にした物はドンゴロス状の背嚢と同状の戦闘帽と同状のゲートルでがっかりした。1年生と2年生とでは服装が全然異なり、私達はまるでルンペンの様だ。不思議なもので段々慣れて来ると、大戚張りで歩ける様になった。入学して間もない4月8日、朝礼の時先輩達全員が一斉に口早に声を出してしゃべり出した。これがいつまでたっても止まない。私達1年生はボー然と立っているだけ。40分位経過した頃やっと終わる。後で聞くと軍人勅論と分かる。それにしても先輩達はよく覚えたものだ。
今まで、付中の生徒はおとなしく、品がよいと思っていたが、間もなくこれも裏切られた。放課後、全員雨天体操場に集まる様にと5年生から通達がある。4年生以下が整列し、その回りを5年生が囲み応援歌の練習が始まる。その合間に「○○出てこい!」と次々と前に呼び出し、何度もほほを殴るではないか。1年生は何事もなかったが、私達は恐さに震えあがった。付中生徒のおとなしい秘密が分かった様な気がした。同じ時1年生は目を閉じる様に言われ、全員部に入る様に命令される。柔道、剣道、銃剣道、蹴球、籠球、ラッパ部等。私は回りの恐さにおののきながら、しかたなく蹴球部に入る。この練習は球拾いばかりで、帰りが遅くなり大変だったが、時々応援歌の練習を抜けることが出来た。
最初の教練の時間に軍人勅論の本を戴く。「そもそも我が国の軍隊は代々万世一系の天皇の統治したまう-----」から始まる長い前文が早口で15分間続き「一つ、軍人は忠節を尽くす事を本分とすべし」の条文に続き5分位のそれに伴う文節となる。続いて「一つ、軍人は礼儀を正しくすべし」「一つ、軍人は武勇を貴ぶべし」「一つ、軍人は信儀を重んずべし」「一つ、軍人は質素を旨とすべし」の五ケ条の文節がある。それに10分位の結文があって終わる。これを全部覚えなければいけない。これを覚えていないと言っては5年生に皆んなよく殴られたものだ。クラスに何か不都合があると5年生から軍人勅論の一部、又は教育勅語を毛筆で書いて来る様に命令された。
1年生の夏は水泳訓練のため山口県室積に1週間泊まり込む。この時は中3日間が雨で技能級は3級までしか上がらなかった。
秋には、10Kmマラソンが草津-甘日市間で行われた。当時は庚午から井口間の道路は出来たばかりでまだ舗装してなく、我々は砂煙りをあげて走った。1番は親戚の可部正昭(5年生)さんだった。私はよく頑張り終盤で50人位抜いて可成りよい成績だったと思う。又冬の12月14日義士祭には1年生だけで可部町の福王寺までクラス単位で行軍し、山頂で帽子取りをした。
2年生の夏は軍事訓練で吉田に合宿した。2年生の終り頃(昭和19年)から次第に空襲が激しくなり出し、広島にもB-29が飛来する様になる。
2年生の秋には学徒動員令が出る。3、4、5年生は工場に行く。1、2年生は勉学に励み、時々農村の手伝いに1週間ずつ泊まり込む。緑井、安村、五日市観音村の農家に2、3人ずつ分かれて泊まる。観音村の時、私が1人で泊まった農家には男手はなく、老母、嫁、2人の幼女の4人家族で、小さい家に電灯が1つしかなくあまりの貧しさに驚いた。
この時よく歌った「学徒出陣の歌」は胸の詰まる思いがした。
花もつぼみの 若桜 五尺の命 ひっさげて
国の大事に 準ずるは 我ら学徒の面目ぞ
ああ紅の 血は燃ゆる
後につづけと 兄の声 今こそ筆を なげうちて
勝利ゆるがぬ 生産に 勇み立ちたる つわものぞ
ああ紅の 血は燃ゆる
君は鍬とれ 我は鎚 戦う道に 二つなし
国の使命を とぐるこそ 我ら学徒の 本分ぞ
ああ紅の 血は燃ゆる
2年生の冬(昭和20年)1月、科学学級の発足となり試験が実施された。私は不合格だった。2月、我々2年生も学徒動員で祇園の三菱重工に自宅通勤することになった。崇徳中学の2年生と一緒だ。ハンマー撃ちの練習、ヤスリのかけ方、旋盤の練習の後で、それぞれ職場に配属された。私はケガキの仕事で、穴を明ける位置とか削る位置を画面を見、計算しながら印を付ける。
しかし4月頃からは材料が不足で仕事が少なくなり、祇園西方の山腹に掘られている防空壕の土の運搬作業が主となった。
3年生の7月(昭和20年)から三菱重工の機械を可部町の東方山腹の防空壕に疎開するため、可部町に通勤することになった。
この頃から空襲が頻繁になり、夜間の空襲警報発令が多くなる。1、2年生が東城町に疎開したため、我々3年生が1週間交替(20名位)で勉強と学校警備のため学校に帰る。その間も夜間警報発令で学校に駆けつけるため、昼間に勉強した記憶は殆どない。
昭和20年7月15日頃自宅の強制立退きが決まり、私は3日間の休暇を貰い荷物の疎開を手伝う。堺町3丁目の我家は8月3日に取り壊されたので、土橋電停前の植木家の離れに、身回り品だけ持って一時移った。姉和子も神戸女子薬専の動員先から1週間の休暇を貰って帰る。
8月6日、朝6時半土橋出発、8時可部町東方の山腹に到着、点呼中に異常な閃光に続き物凄い爆発音ときのこ雲を体験する。広島市が新型爆弾にやられたのだ。徒歩で、可部-三滝-山手町-己斐を通って五日市町の疎開先に16時頃到着。途中雨に合う。雨の中無数の火傷をした人、死んだ様に道に倒れている人々を見る。
疎開先には誰も帰っていない。夜、姉が無傷で帰る。嬉しかった。でも父、母はだめだ。生き残ってくれた姉も8月19日死亡。
8月15日終戦。疎開先の楽々園の家で可部家の皆様に面倒を見てもらう。食料不足のため、畑で野菜を作り、又疎開した荷物の後始末のため、21年3月まで休学する。21年4月から再度3年生として西条(付属中学の疎開先)に通う。ストライキをして途中の駅で降りた事、汽車が満員で炭水車に乗った事、又その上で勉強していた本と共に真黒になった事、親戚の伊野本からお米を一升びんに入れて運んだ事、学校の帰り広島駅で途中下車して駅前の闇市で遊んだ事等思い出される。
1年後の昭和22年4月から学校は元の千田町に戻る。この年から共学となり男子校の付属中学に女子が入学した。この年の付中のサッカー部は最強で、全国優勝をした。全国中学サッカー大会の広島予選では、対修道中学、対広島一中との決勝戦とも、授業を止めて応援に行った。
23年3月付中4年生から広島高等学校に合格。大変嬉しかった。戦後1年休学したが、これで追い付くことが出来た。
22年夏頃から可部家では、荒神町の「はとや」呉服店の1部を借りて配給制度の衣料品店を出店した。夏休みには毎日店番をしに楽々園から通った。
23年4月、新学校制度が発足する。旧制高校は1年間だけとなる。
23年夏頃、可部家では的場町に2階建の店舗を造り、楽々園から引っ越した。私の現住所だけは五日市町に置いておく。
24年7月頃新制大学の入試が実施され、私は広島大学工学部工業化学科に合格した。9月に入学式。大学が始まって間もない10月、私は盲腸炎から腹膜炎を患い、的場町の沢崎産婦人科に1月間入院した。
広高時代の1年間は、英語、ドイツ語、数学等物凄いスピードで進み、なかなか付いて行けなかったが、大変勉強になった。そのため新制大学での約2月間の欠席は、簡単に取り戻すことが出来た。
25年7月申請中の奨学金が決まり、4月から7月までの7200円を貰い嬉しかった。終戦からお金を持ったことがなく、本を買うにもその度にお金を戴いていたので、この大金を何に使うか、わくわくした。
●大学時代
昭和24年9月入学後、26年3月までの1年半は教養学部で元の広島高等学校で授業を受けた。特に記憶に残ることは、化学分析の定性分析テストで、微量の金が入れてあったためゴミと判断してしまった。
26年4月から工学部での授業となり、広島高等工業専門学校が広島大学工学部となる。まだ工専には同期の学年が1学年残っており、学部での1年間は一緒だった。当時の先生方は、村田(有機化学)、上田(無機化学)を筆頭に、まだ若い三羽烏の、頼実(化学工学)、竹内(電気化学)、原田(染料化学)先生達で、度々実験の途中でも野球をしたものだ。又当時は実験道具も少なく、焼け跡を掘って、バーナ、鉄管を集めた。
学校から的場の家に帰ると、呉服店の店番をしたり、自転車で仕立て屋さんの家を回り、夜11時に店を締め盗難防止のため全部の商品を床下に収め、私がその上に寝た。朝は6時に店を開き、床下から商品を出し陳列してから朝食を摂り学校に行った。あまり勉強をする時間がなかった様に思う。
友達5、6人で、御幸橋東端の釣り具店で舟を借り、京橋川を海まで往復した事も2、3度あった。卒業前10人位で宮島に行き弥山に登った記憶がある。
卒業論文が出来た28年2月、初めて東京に遊びに行った。東京には可部順三郎君が東大の学生で下宿しており、彼の案内で宮城、東京タワー、明治神宮外苑、赤坂離宮等を見物した。
その頃から呉服店も忙しくなり、お世話になった可部寅呉服店に就職することになった。
●壮年時代
昭和28年 4月 --- 昭和41年 1月 可部寅呉服店 勤務
昭和41年10月 --- 昭和42年 8月 A税理事務所 勤務
昭和42年11月 --- 昭和46年 9月 C洗剤製造会社 勤務
昭和46年12月 --- 昭和59年 7月 菱明技研株式会社 勤務
昭和28年 8月 頃 90cc以下原動機付自転車許可証
昭和29年 3月30日 軽自動車免許
昭和38年 3月 頃 普通自動車免許
昭和45年 8月11日 危険物取扱主任4類,6類
昭和49年 3月20日 第3種大気公害防止主任
1)可部寅呉服店 時代
昭和28年3月広島大学工学部卒業と同時に可部寅呉服店に就職するが、広島高等学校時代から暇さえあれば店番や配達をしていたし、寝食も変わらず特に緊張感はなかった。振り返れば大学進学で薬学部に行きたかったが、広島大学には当時薬学部はなく、広島以外に出るのは親も家も金もない自分には出来ない事だ。奨学金が戴ける様になって他の大学の薬学部に転籍を研究したが不可能と分かり、そのまま工業化学の勉強をする。やがて就職試験が始まるが、当時まだ産業界は不況で縁故色が強く私には無理と思った。幸い呉服は少しずつ忙しくなり店を手伝う様にとの話しがあって、全く就職試験を受けなかった。今になって思うと大変残念で進路をあやまったと後悔するが、広島を出て就職した場合土地等の財産のことを考えるとこれで良かったのだとも思う。
私の就職1年前から戦前の店員だった甲斐さんが復職していた。そのころから呉服の商品が増え始め、今考えると衣料品の統制解除と手形仕入れが始まったと思う。
私の仕事は主として経理で、小切手、手形のことを全く知らないのでだいぶ戸惑った。7月末棚卸しをすませ9月末の税務署への決算書提出まで、振替伝票、貸借対照表、損益計算書、税務計算等何も分からないまま可部輝夫さんの指示で3晩徹夜して処理した。
私の日程は、午前中に前日の経理事務を済ませ午後は店で販売を手伝ったり、仕立て屋、紋屋、湯のし屋を自転車で回ったりした。昭和28年?月盛君入社、29年4月沖政君入社、30年4月沖野君が入社した。その頃は呉服もよく売れ利益も出たが、手形の支払いは苦しかった。
昭和28年8月頃医師の診断書だけを警察に提出して90cc以下の原動機付自転車許可証を取得した。間もなく、後ろタイヤを摩擦方式のエンジンを後車輪の左に付けた自転車を店に購入した。初めてなので用事を見付けては乗り回した。しかし当時の90ccは馬力がなくて、坂ではペタルを漕いで助けてやらねばならなかった。よく故障したので翌年の29年の始めオートバイの形をした130cc位の中古に乗り替えたが、免許の事が分からず当分前のNO.プレートを付けて走った。やがて軽自動車免許が必要と分かり、試験を受けに大芝自動車試験場に行く。その頃には軽自動車はまた 市販されていなくて、試験車は130cc位のオートバイでした。私と輝夫さんは合格したが順三郎君は途中で足を着いて不合格だった。彼はその後軽免許は取らず、33年頃東京で普通免許を取得した。昭和33年頃からスバルとマツダクーペが市販され、可部寅呉服店では35年夏スバルの中古を購入した。免許はあるがハンドルを持つのは初めてなので、輝夫さんと2人で早朝練習に宮島や呉まで何度も行った。
商売の方は、30年位までは目新しいものなら仕入れれば何んでもよく売れた。しかし段々物が豊富になって来ると品質、柄を選ばれ次第にデッドストックが出来てきた。33年位からウールの着物が作られ、よく売れた。ぜい沢になり年末には訪問着、付け下げ、お召、夏には浴衣、呂の着物等柄がよければどんどん売れた。特に11月15日から20日までの「えびす祭り」には上等の着物を始めサラサ、金布、天竺、ネル等飛ぶ様に売れた。雪のちらつく店先で一日中たばこに火を付ける間もなくネル等を切ったものだ。
一方売り出しの特価品用に仕入れた安物が売れ残り、経営面では赤字が累積されだした。
昭和34年7月社会保険に加入と同時に可部寅蔵さんに「喉頭ガン」が見付かり東大病院にて木元教授執刀の手術。年齢のわりに経過よく4ヶ月位で退院し広島に帰られる。その間私の見合い話しも進まず、35年6月頃勝矢美子と見合い、2度目に映画と食事、3度目は海田の家、結納(仲人の大黒さんと番頭の甲斐さんの2人で私は行かない)、4度目は宮島に行った。
昭和35年10月30日水主町の万象園で結婚式。式後段原日出町の家に帰り夜中の午前1時発の汽車(1等車)で新婚旅行に出掛けた。直接雲仙の予定を変更して長崎見物の後バスでタ方雲仙の新湯ホテルに入った。翌日雲仙岳に行き午後は地獄巡りと近くの池のまわりを散策した。雲仙2泊してバスで島原に出る。島原から船で三角、汽車で熊本に着き水前寺公園に立ち寄り夕方阿蘇の内牧の蘇陽館に入る。新婚3夜目。翌日阿蘇山に行き大分駅で土産を買い夜広島に帰る。2日後店のスバル(軽自動車)で挨拶回りをした。
段原日出町520番地の6の家は可部寅蔵所有だが五日市町楽々園の共有地(建物を含む、可部寅蔵と新述保の共有(1/2))と交換の約束になっていた為、自費(15万円)で結婚1ヶ月前から修理した。主として流しをレンガとセメントからステンレス製に交換、離れの天井の取りかえ、ふすまの張りかえ等。しかし、話し合いで洋間と座敷2室は沢田美恵子さんの使用とし同居生活が始まった。当時は決まった休日がなく一月に一日だけ適当な時に休む習慣で正月以外連休はなかった。結婚前の昭和33年に店の沖野君と大山に行った時も2人とも2ヶ月分の休暇を特別に1度にとらしてもらい、夜行で行き登山を終えて又夜行で帰る等無理をした。四国を正月に旅行した時も12月31日の夜行で出発して3晩寝ずに移動した。
結婚した次の昭和36年正月2人で秋芳洞に日帰り旅行をした。秋芳洞は私が幼稚園時代に母、姉と来た思い出があるが恐くて母にしがみついていた様に思う。36年小型の扇風機を買った。
昭和36年9月26日隆弘誕生。朝4時頃産気づき私は急いで店に車を借りに行き美子と可部の伯母を乗せ市民病院に行った。市民病院では満室なので宇品の方に行く様にと断られたが、無理に頼んで入院出来た。朝10時出産。
この年は9月末でも大変暑く扇風機もなく(当時一般家庭には高根の花)ウチワだけだった。1週間後海田に連れて行き約1ヶ月後段原に帰ってからが大変だった。やがて、湿疹が出来始め美子は病院通い。37年7月頃妊娠と分かる間もなく、隆弘が火傷をして日出町の山田外科に入院。待遇が悪く3日で退院、的場の麻植医院に入院した。そこは特殊な薬で治療をし、大変よくきいた。2週間位で退院。入院中美子は隆弘を連れて電車で的場-宇品-己斐-的場と回った。
37年秋に海田の勝矢では新築工事が始まる。その工事で忙しい中の12月23日頃隆弘を預けに行く。昭和37年12月26日由利子誕生。その26日少し早く車をもって帰る様にとの電話で18時頃帰ると病院で注射をしたので間もないとのこと。すぐ車にフトン類を積み東雲町の大浜産婦人科医院に美子と一緒に行く。21時出産。
38年の正月3日間は私も病院に泊まり、食事は勝矢と可部で食べさせてもらった。1月3日退院し海田へ連れて行く。隆弘はいるし、新築工事は完了に近いし海田は大変だ。又38年は特に寒く段原の家で、枕元の湯飲みの水が凍った。海田に泊まった朝(1月8日零下8℃)オートバイで的場の店に向かう途中手と額が冷えて何度も止まってエンジンで暖めた。2月、3人を段原に連れて帰ったがオシメは乾かないし2人分必要で、貸しオシメを利用した。私の帰りは遅いし2人分のオシメにミルクに風呂等毎日が大変だった。38年3月普通自動車免許を取得。軽免許を持っていても正式に習ったことがないので、始めは苦労した。当時、自動車学校は大芝試験場にしかなく、他は全部自動車練習場だった。仕事で出たついでに吉島、宇品、海田、主として二葉練習場で空いていれば車に乗った。20分間が300円位だった。1度目はあがっていて2,3度脱輪した。2度目はハンドルが重くクランクコースが間に合わなかった。3度目は前輪右側が脱輪したが鋭角を上手に通過したので合格した。総費用18000円だった。
39年頃私、盛、沖政、沖野の4人でスバル(軽)の中古を12万円で買った。駐車場に店の西側を使用させてもらうのに寅蔵さんの機嫌のよい時をねらって申し込みOKを戴く。5円/1Kmの計算で使用した。半年位使った40年頃京都の川崎商店の主人が新車のライトバンに交換して差額を負担し、出張時には優先的に使用したいとの申し込みがあり、新車に交換。
財産面では私の結婚費用にと33年頃竹屋町の土地約60坪を120万円位で売り、37年3月舟入南6丁目38-3番地約100坪を400万円で電々公社に売った。昭和40年暮れ舟入南6丁目26-1,27-3計260.4坪を19,530,000円で日本石油と売買契約。契約金200万円。
私は家を建てることを計画した。正月の間悩んだうえで昭和41年1月4日退社を決意しそれを表明した。
41年3月31日契約どおり無事にお金を受領。数日後スバル(軽,35万)購入。早速借家捜し、庚午、中広と見て回り府中に決める。家賃1万5千円。すぐ引越しの支度。出来るだけスバルで運ぶ。風呂、トイレ付き2DK。段原の幼稚園を断り、隆弘を府中の龍仙幼稚園に入れる。入園間もなく、隆弘がバスのドアに手をはさまれ指を骨折した。
2)堺町自宅建設
いよいよ自宅建設にかかる。初め木造2階建から1部3階建に最後には鉄筋3階建に決める。それと同時に建設会社の選択だ。殖産住宅、砂原組、海田の正田建設等色々相談した後、可部寅時代から付き合いがあり、隣の荒石さんからも頼まれ高橋建設に決め昭和41年7月7日900万円で契約。
監督は小田秀幸。注文者安芸郡府中町1395番地新述保。契約金90万円。
午前中高橋建設で打ち合わせ、午後はスケート(35才で思い切って始める、当時は皆実町、流川町、十日市町の3ヶ所)、夜は美子と家の相談。厚紙で模型を作り、階段室、居間、飾り棚等を検討した。
その間、美子は自動車の練習を始め海田の練習場に通った。隆弘を幼稚園のバスに乗せた後、スバルで練習場に行き私と由利子は後席で見物したこともある。秋頃には軽免許を取得し、早朝車の少ない時堺町の新築現場、又海田の勝矢へ1人で行った。
新築工事進行常況
昭和41年 7月 ?日 地鎮祭
7月22日 30cm位掘りダンプで搬出。
7月27日 荒石側矢板打ち込み。
7月29日 渡辺側矢板打ち込み。
7月31日 ブルドーザーで掘る。材木で支えバラスを一層だけ敷く。北側
矢板なし50cm控えて掘る。
8月12日 底の鉄筋にコンクリートを入れる。
8月13日 基礎の柱、壁の鉄筋に仮枠。
8月14日 基礎の柱、壁にコンクリートを入れる。
8月18日 仮枠の除去。
8月20日 道路側の矢板の除去。
8月21日 側面の矢板をクレン車で除去。
8月24日 バネルの組み立て始まる。
8月28日 1階のバネルの組み立て終了。
12月19日 高橋建設の最終支払い50万円。
12月20日 トイレと畳が出来たので仮引越し。
12月25日頃 高橋建設の2屯車で引越し。
昭和42年 1月 1日 府中で朝を迎え充分遊んでタ方堺町へ。
1月 4日 住民票を移転。
3)A経理事務所時代
私は新築工事の始まった7月末からA経理事務所に勤め始めた。90ccのバイクで府中町八幡から通勤した。可部寅時代が我流だったので新らためて勉強のやり直しだ。税務報告の表紙、4表の記入方法等よい勉強になった。
会社からの帰りには堺町に立ち寄り進行状況を確認した。給料は税込み29500円。
一方監督の小田さんが41年9月に結婚されることになり、アパートを捜し同じ府中町八幡に世話をした。祝金3万円の他食事道具も整えた。
12月19日堺町の家が完成間近で畳も敷かれると聞き、所有権確保のため引っ越しを決める。夜遅くまで身回り品を整理したが、2人とも嬉しくて興奮し寝付かれなかった。20日の早朝出勤前にスバルに4人と荷物を乗せ堺町に移る。荷物を降ろしA経理事務所に休暇を届け、私1人で数回荷物を運んだ。当日トイレが使えなくて隣を借りた。まだ洋間の天井の工事中で座敷だけ確保出来た。それでも自分の家だと大変嬉しかった。12月25日頃工事も終わり高橋建設の車で家具類を運んで貰う。府中町は町民税が安く広島市との差額が40万円位(スバル1台分)と分かり1月1日を府中に居ることにし、12月31日午後フトンとコタツを持って府中に行き親子4人泊まる。1月1日は餅を食べ外を走り回って居住を宣伝し、午後堺町の我が家に帰る。
昭和42年1月4日に住民票を移動。正月3日堺町坪村家具で応接セット、ビューロ、机等を購入し居間らしくなった。
隆弘の龍仙幼稚園は12月で退園し、平和公園前の橘幼稚園に隆弘(1年保育)、由利子(2年保育)を申し込む。
一方A経理事務所では段々難しい経理になり、一日中机に付いての仕事では健康上良くないため、自宅の3階にピンポン台を購入した。当初計画した税理士資格取得は、経験5年、項目5年かかると分かり、42年6月退職した。
職安の紹介で42年10月15日から11月5日頃までB自動車会社に勤めたが、ひどい会社で社長、専務が怒鳴り散らす状態だった。決算整理を担当したが、結局のところ広島大学の竹内先生の紹介でC洗剤製造会社に役付で勤務することになった。出資金40万円。
4)C洗剤製造会社時代
竹内先生と同行し洗剤の成分、製造方法等を聞く。
14年間も化学から遠のいていたので理解出来ない事もあった。まず洗剤の混合から始めた。主として塩酸9.5%と硫酸3%の混酸だ。いい加減の混合でこれで良いのかと思っているうち、混酸濃度10%以上の問題が起こり分析が必要となった。化学天秤がないので広大佐伯先生に修酸の規定液を作ってもらい分析をした。次第に私に主導権が移ると同時に責任が重くなっていった。
酸濃度を変更し、製品ロット分析制度を確立し、営業の要望する食器洗剤の開発研究に取り組んだ。一方濃塩酸受け入れる時に出る刺激臭を除去するため、吸収塔を作った。その内使用中の濃塩酸タンク(積水パネル組み立て式、6m3用)が漏れだし、大急ぎで稀釈して消費した事。タンクの取り替えの基礎作りで3m3のコンクリートに奮闘した事。長期間にしみでた塩酸で道路の水道管が破裂して大きな穴があいた事。
食器洗剤の研究も日産化学の王洗(アルキルべンゼンスルホン酸)を入手することが出来、苦労の末、完成した。これも容器詰めで、粘度があるためポンプアップしたが皆が1度にホースをつかむと1人の所に圧力がかかり噴出した。対策として別工場を作り充填機を購入することになった。鉄骨3階建ビルの建設と充填機、タンク類、攪伴機等の選択に全力を注いだ。そのため飛行機で東京、大阪に行くこともあった。時々充填機が漏れて洗剤が飛び散り、あちこちベトベトになった事。末永君が洗剤を入れたバケツと一緒に階段を滑り落ちた事。その頃新しい洗剤に添加していた色素オーラミンが発癌性物質として発売禁止となり、食品添加用黄色4号の退色に悩まされた。
工場では女子工員(おばちゃん)10-15名で液体洗剤を容器に詰め、1日400ケース(24本)を生産した。倉庫がないため貸倉庫を使用したり私宅の1階(当時は税務対策上自分の車庫)に運んだ事もあった。
続いてトイレ香水の開発研究と製品化。定量ポンプによる油の計量、収縮フィルムの使用に伴う熱風トンネル等問題点の解決に苦労した。又塩酸タンクの減圧による天井陥没等肝を冷やした事件も継々と起こった。
資本投入を惜しむC社長に疑問を抱き始め、取締り工場長として恐くなり退職を決意した。昭和46年9月頃退社。
思い出としては、家族4人で社員旅行(熊本、阿蘇、別府)に参加し、美子達3人が1つの寝台に寝たことなどである。
C社を46年9月頃退社して46年12月21日菱明技研(株)に就職するまでの約3ヶ月間なにをしていたか殆ど記憶していないが、小学生だった子供を連れてよく歩いた。双葉山、三滝の観音等へ堺町から徒歩で往復した。職安にて自分で菱明技研を見付け面接に行った。工専出身の亀田常務と会い、広大竹内先生の紹介にするように忠告され、竹内-西本(広大の3年後輩で広研化プ研主任)の紹介で入社した。
5)菱明技研時代
S.46年12月21日 仮入社
S.47年 1月 5日 入社
1月-- 3月 第1APC建設
4月-- 8月 煙突スクラバー試験
9月--12月 同上 パイロット試験
S.48年 1月-- 2月 同上
3月--12月 第1APC 脱硫試験
S.49年 1月-- 6月 アンダーセン分級器試験
7月--12月 赤谷、井倉、秩父石灰石吸収試験
S.50年 1月-- 2月 脱硝試験
1/16-- 1/16 高砂出張
2/17-- 3/14 大村出張 石炭だきボイラー湿式除じん試験
4月-- 5月 高Ca利用率試験
6月--12月 湿式脱硫、脱硝試験
S.51年 1月-- 3月 高温酸化、Cal₂製造
4/15-- 5/21 なこそ出張
6月--12月 α石こう、β石こう試験
S.52年 1月-- 5月 α石こう製造、製造装置研究
6月-- 9月 鉱さい利用研究
7/25-- 7/27 竹原出張
9/14 高研出張
10月--11月 ALコンテナー回収試験
12月 高粘度回収油移送試験
S.53年 1月-- 2月 同上
3月 石炭燃焼試験
4月 海水淡水化試験
5月-- 9月 海外向け脱硫装置試験
10月--12月 簡易酸化試験
S.54年 1月 同上
2月-- 5月 TTJM
3/12-- 5/5 なこそ出張 4/17 森原部長出張
6月--10月 濡れ壁式酸化試験
11月--12月 石炭燃焼試験
S.55年 1月--12月 S元素化試験
S.56年 1月 同上
S.56年 2月----------S.59年 7月 ACLU石炭液化試験
3/ 9-- 3/22 Run 5- 3-1硫化cso280℃で暴走
4/ 6-- 4/18 Run 6- 4-1 HAO 水添1度暴走
5/18-- 6/ 9 Run 6- 5-2 液化、水添
6/29-- 7/18 Run 6- 6-3 液化、水添
8/31-- 9/19 Run 6- 8-4 同上、C₂-SRC
10/ 5--10/24 Run 6-10-5 同上、C₆-SRC
11/16--12/ 5 Run 6-11-6 同上、C₁₂-SRC
S.57年 1/ ---- 2/ オートクレーブ試験
5/17-- 5/29 Run 7- 5-1 R-201水添、液化
6/28-- 7/ 2 Run 7- 6-2 EBR 硫化
7/12-- 7/16 Run 7- 7-3 EBR 水、添
8/23-- 9/11 Run 7- 8-4 液化、水添
9/27--10/ 3 Run 7- 9-4 SRC-水添
11/29--12/18 Run 7-11-3 C₁₂-SRC
S.58年 1/ ---- 4/ T-501 工事他
2/21-- 3/18 Run 7- 2-4 C₄-SRC
5/13-- 5/17 Run 8- 5-1 C₀-SRC
6/13-- 6/18 Run 8- 6-2 T-501 系
8/ 8-- 8/12 Run 8- 8-2 EBR 系
11/21--12/27 Run 8-11-3 T-501、2含む全系
S.59年 1/ ---- 3/ AC試験(錫浴)、水素含蔵合金比熱測定
4/ 9-- 4/27 Run 9- 4-1 HKO C₅-SRC
6/20-- 7/24 Run 9- 6-2 B炭 全系運転
昭和46年12月21日仮入社。社会保険の手続き上、昭和47年1月5日入社となる。会社は工事現場の様なホッタテ小屋で不安だったが、すぐ三菱重工広島研究所に連れて行かれ、続いて実験場を案内され、規模の大きさに驚いた。
当分の間APCの建設計画に携わるが、規模が大きいのと制御機器が多いので理解しにくい事が多かった。47年の始め頃から回転式スクラバーの小型テスト後パイロット試験を実施したが良い結果が得られなかった。間もなく反転式スクラバーの開発研究に取り組み圧力損失と吸収率との関係が得られ、バイロット試験を実施した。これは小型スクラバーとして販売された。
続いて煙突式スクラバーの開発研究を行い網式吸収塔等を実施した。入社以来APC建設は白石さん、以後は生塩さんの指導で実施したが、大変勉強になった。コンプレッサー、ブロアー、D/Pセル、オリフィス流量計、蒸気圧、吸収率、計機操作等、大学では得られない技術を得ることが出来た。
その後53年まで主として第一APCで脱硫試験を実施した。各種石灰石の性能試験、デミスター性能試験、酸化塔試験、簡易化試験、Ca12による脱硫脱硝試験、α石こう試験等を実施した。その間にも脱硝試験、アンダーセン試験、ALコンテナー回収試験、高粘度回収油移送試験、石炭燃焼試験、S元素化試験等を第三APCなどで実施した。
出張もあり、福山三菱電機、富士市の製紙会社、高砂発電所、勿来発電所(1次)、大村発電所 黒崎三菱化成、千葉川崎製鉄、勿来発電所(2次)等に出張した。
福山出張は私には初めての体験で1週間であったが大変長く感じた。昼間計測した結果を夜旅館で計算尺を使って整理した。勿来出張(1次)は楽しかった。加勢での出張であり休日には吾妻磐弟スカイライン、平泉の中尊寺、松島、蔵王等旅行した。大村出張の時、旅館での喧嘩で旅館を変えた事、長崎雲仙ドライブ、西海橋ドライブ、出張帰りの大村-広島間の夜中の長距離ドライブ等大変懐かしい。
この頃55年9月広島ハイキングクラブに入り頻繁に山に行きだした。56年2月から59年7月退職するまで3年半ACLU石炭液化試験に携わる。準備が出来れば3-4週の連続試験で3直2交替勤務で大変だった。高温(400℃)高圧(150Kg/cm2)で水素を反応させるため非常に危険な実験だった。準備中も石炭の粉砕は真っ黒になり、粉塵爆発の危険があった。
連続試験中も何度か恐ろしい事があったが、59年4月10日午前4時半ポンプグランドが吹き飛び一瞬にして150気圧の水素が噴出した。引火していたら大惨事だった。引火しなかったが何時爆発するかと生きた心地がしなかった。
6)菱明退社にあたって 昭和59年7月31日
6月6日(水)江口課長から、8月より来年4月まで三原に出張する様に話がある。直ちに、私は前年に伝えたように、現場作業である上に、寮生活を送ることは54歳の年齢上、体力的に困難であることを訴え退職を決意し表明する。
同夜、広島大学竹内先生が心配して電話して下さり、実態を伝える。
|