ただ今紹介されました伊達でございます。七四年前の八月六日に広島市に原爆が落とされた事を知ったのは、広島県内にあった陸軍暁部隊の特別幹部候補生を指導する教育隊でした。昼頃上官から本日六日八時過ぎ広島市にピカドンと云う新型の爆弾が落とされた。市内は壊滅状態である。伊達伍長は明日候補生五〇名を引率して救援のため広島へ出発せよ。と命令された。
翌七日朝候補生五〇名を引率して、呉線の忠海駅から列車に乗り、約一〇〇キロ離れた広島駅へ一〇時前に着いた。暁部隊本部の下士官が迎えに来て呉れており元町段原にある駐屯地へ案内する、徒歩で二〇分位です。道路の道端には多数の死体が転がっており、子供が多く見られた。子供の中におへそから腸が出ておる幼子(おさなご)がおり、道中の家は皆なつぶされていた。ピカドンという爆弾の恐ろしさを知り身振いした。
後日被爆者救護施設の先生に聞いたのですが、子供の二~三才まではおへそがやわらかいためお腹を圧迫されると腸が飛び出すのだと云われました。子供たちは原爆の爆風の圧力を受け大変な苦痛のまゝ死亡したことでしょう。可愛い想でなりません。
駐屯地は松の木がたくさんある丘の上にあった。隣りに民家が一軒ありました。下士官から生存者を救護所へ運こび、終り次第死体を練兵場へ並べ安置するように指示された。救護所は多勢の被災者の泣き声で大変であった。それらを親切に手当される看護婦のやさしい姿は女神の如く感じました。
死体が一番沢山在ったのが太田川の川岸です。足の踏み場のないほどの男性の死体です。目に余る惨状でした。一四万人の犠牲者の一部です。川の流れは変らず海へと流れておりました。
死体を練兵場へ並べ安置していた時、二〇代なかばの女性が近づいて来て「やっと子供が見つかりました。三才の男の子です。連れて帰れないから火葬して下さい」と云われたが一八才の私はとまどいました。「どうか息子を連れて帰らせて下さい」と嘆願され、一三才の時私のおじいさんの葬式で山の中で火葬したことを思い出しました。「やって見ましょう」と云った。女性が涙を拭かれ、お願いしますと云って息子の死体の方へとむかわれました。周囲には有り余るほどの木材が転ろがっておる。体が小さい子供だから火床となるわく組も容易であると考え、候補生たちに木材を集めさせ、私の指示により火葬場ができた。火葬の途中で母親が骨つぼになる入れ物を探がしに行き、帰って来られた時、どびんを持っておられた。もう少しお腹が焼けないことを話し二人で助け合って火葬ができた。二人で泣きながらお骨を拾った。母親が息子に語り掛けるように「良かったね、これで帰れる」ふろしきに骨つぼを包み、抱いて帰られたあの姿が今でも脳裡に浮びます。
市民が火葬をしなければならないような核兵器を使用させてはなりません。そのためにも戦争をしてはならない。更に世界中の国が核兵器禁止条約に署名して核廃絶に向って世界中の人達と連体し協力して実行されることを願う一人です。
駐屯地の隣りの民家の娘さんと初めて合った。一八才位と思う。泣いておられる。「どうされました」。娘さんから「私はどうしたらよいのでしょうか。私しが悪いのです。空襲警報が解除されたので空を見上げたら落下傘のようなものが落ちているので太陽の光りをさけるため右腕をかざしてよく見るとやはり落下傘です。「お姉さん落下傘が落ちているから早く出てご覧ん」と呼んだ。お姉さんが玄関を出て空を見上げたその時、ピカッと光り、どんと大きな音がして強風で二人は後ろへ倒れました。私は右腕だけのやけどで済んだが、お姉さんは顔一面やけどしてケロイド状態になり痛いと云って鏡を見て一日中泣いております。食事もむづかしく、食べないからやせて来ました。私が悪いのです。声をかけなければよかったのです。呼ばなければ良かったのです」と自責の念に襲われておられました。今なら私から戦争が悪いのですと云えます。戦争はしてはならないのです。
被爆から七四回目の夏が来ました。核を駆け引きの材料にしようとする国々の動きはやむ気配はない。そんな中でも死の恐怖や偏見を越え、体験を語り続ける原爆被爆者の語り部の一人であった今はなき吉田勝二さんの逸話が本年の七月一二日(金)の日本経済新聞日刊の、春秋らんに記載されていました。
吉田さんが小学校の運動会に出席した。その時、次男の友達が言った。「おまへの父ちゃんは恐ろしか顔しとんね」次男がすぐに毅然と言い返したそうだ。「父ちゃんは原爆に遭うたんたい。なんも怖いことはなか!」息子の言葉に救われましたと吉田さんは振り返る。そして常々こう語っていたと聞く。「平和の原点は人の痛みがわかる心をもつことだと」
私は願うのです。国連の事務総長が音頭をとり各国の国連大使で広島の原爆資料館を見られていない方と共に、広島平和記念資料館を案内して戴き、核兵器禁止条約に協力してもらいたい。そして核廃絶に向って世界中の人たちと連体し、協力して実行させることです。皆様方にもよろしくお願い申し上げて私の体験談を終ります。
ご静聴有難うございました。
核兵器の開発製造を「核抑止」のためと広言する国もあるが核兵器は非人道的な兵器である。あの広島で原爆によって死亡した幼子たちのあの悲惨な状況は言語にぜっするものである。全世界の人達が連帯してとにかく核兵器禁止条約を早急に成立させなければならない。
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