一<父を亡くした>
私の家族は、太平洋戦争が激しくなるまでは、兵庫県尼崎市に住んでいました。父母と姉と私の四人で幸せに暮らしていました。父は、住友金属という会社の電気関連部門の技術者でした。夕方になると姉と二人で会社の近くまで迎えに行って、父と一緒に家に帰るのがとっても楽しみでした。父は、家では、風呂を沸かす電気装置を手作りしてみんなを喜ばせるような家族思いの優しい人でした。
しかし、戦争がますます激しくなってからは、父も召集されて千島・樺太方面に行っておりました。いつ頃だったかはっきり覚えていませんが、父が呉の海軍基地に戻って来るというので、母と姉と私の三人で大阪から汽車に乗って父に会いに来ました。
旅館に泊まった夜、にぎやかな街中の人々の流れを見ると、帽子の後ろに二本の紺色リボンをなびかせて歩いている水兵さんたちがたくさんいて驚きました。久しぶりに会ったお父さんとどんな話をしたか一緒に何をしたかよく覚えていません。きっと疲れきっていて、夕食が終わるとすぐお布団に入って眠ってしまったものと思います。
父に会った次の日、母は、「今度は夏服の軍服を支給されたよ。」と、父が言っていたと話しました。それは、南方の戦地に派兵されることを示していたのでしょうか。案の定、南方ニューギニア方面で戦死したとの知らせが我が家に届きました。母の悲しみを少しも気づいてあげられなかった私でした。
二<母を亡くした>
父の戦死の悲しみの中で暮らしていた私たちでしたが、大阪や尼崎も空襲の恐れが次第に強くなりましたので、祖父母(母の両親)のいる広島の五日市の実家を頼って疎開して来ました。それまで何度か広島のおばあちゃんの家に泊まって楽しい日々を過ごしていましたので、姉と私は嬉しいばかりのご機嫌な母の実家への里帰りでした。
当時、五日市の楽々園というところにあった海水浴場に近い母の兄の別荘が空いていたので、そこを借りて母姉私の三人の生活が始まりました。そのとき私は一二歳。国民学校初等科六年生の頃でした。
ところがすぐに、母が肺結核を発病しました。母は毎日毎日咳をしながら家でじっと寝ているようになりました。戦争の真っただ中、厳しい社会状況で、食べるもの、着るもの、医薬品など入手が困難なうえ、医者通いもままならない時でした。母の容態はどんどん悪化していきました。
楽々園での生活が始まって間もないわずかの間に、とうとう母は亡くなりました。それまでに、母に甘えたかった私は、母の布団の中に潜り込んだりしたせいで、私にも結核が伝染しましたが、なぜかひどくならないうちに回復しました。葬儀は、私たちもよくわからないうちに、祖父母だけでひっそりと執り行われたようでした。昭和一七年一二月二一日、母三六歳のことのようでした。
母が亡くなって姉と二人きりになりました。私たちは、母の兄(伯父)の家に引き取られることになりました。そこには六人の子どもがいました。戦争中の物資不足はその家にもしっかり及んでいて、私たちは大変迷惑な存在であったようでした。食べること、着ること、家族の団らん…いつも二人はのけ者にされているように感じていました。本当に辛い思いをしながら耐えて過ごしました。
毎日のことですが、伯母さんからお弁当をもらって学校に着くと、弁当箱にはご飯が少ししか入っていないので、一種類だけのおかずの黒い塩昆布と絡まって、ご飯が箱の隅に片寄って固まっていました。クラスの友達に見られるのが恥ずかしくて、少しだけ蓋(ふた)を開けて箸でご飯を弁当箱全体に広げてから、ゆっくりふたを開けるようにしました。そして、恥ずかしいのでうつむいて腕で隠して食べました。辛い毎日でした。
このようなことは、戦争によって物資が乏しくて起こったことです。今になって思い出してみると、戦時下の大変な厳しい暮らしの中、よくぞ私たちの世話をしてくださったと、伯父さん家族への感謝の気持ちでいっぱいになります。悪いのは戦争なのです。
三<姉と二人で生きて>
母の死の次の年、昭和一八年春、私は高等小学校を卒業しました。尼崎の学校から卒業証書が送られてきたのを覚えています。四月からは、川を渡ってすぐのところにある広島実践高等女学校(後の鈴ケ峯女子高等学校、現在の修道大学ひろしま協創中学校高等学校)の中等科に進学して通うことになりました。その学校には別の叔父が教員をしていました。
姉は女学校を卒業して、広島市内の兵器廠で働き始めました。二人は、それを機会に伯父の家を出て私たちだけで暮らすようになりました。五日市駅近くの線路わきの古い家でした。
学校では入学式はありましたが、授業などまるでなく、毎日毎日勤労奉仕で隣町の廿日市にある中国醸造という酒造会社に、みんなで歩いて行って働きました。軍隊に送る酒などの瓶(びん)洗いや、酒造りの原料となるグルコース(ブドウ糖)の大きな塊(かたまり)を木槌で砕いて粉にする作業などを来る日も来る日もさせられました。
いつもお腹が空いていました。昼食は、手のひら半分くらいの大きさの、茶色がかった何とも言えない色のねっとりしたお餅のような団子のようなものを一つだけ支給されました。空腹でたまらない私たちは、醸造工場の中に並んでいる背丈の倍以上もある酒樽(さかだる)に、管理者の目を盗んで梯子(はしご)をかけて登って、樽の内側に着いている酒粕を手で擦(こす)り取っては口に入れることもありました。
また、グルコースの大きな塊を砕いて粉にする作業では、工場の人の目を盗んで横を向いて、小さなかけらをパッと口の中に放り込んで作業を続けたこともありました。甘くておいしくてたまりませんでした。とにかく空腹のつらさにさいなまれる毎日でした。
四<原爆投下の惨状の中で>
中学三年生の八月六日、朝八時一五分。広島に原爆が投下されました。広島から遠く離れた五日市も廿日市も窓ガラスが割れたり屋根が浮き上がったりして大きな被害が出たところがあったようです。しかし、私はその瞬間のことはよく覚えていないのです。パっと光ったとか大きな音がしたとか、実はどうも記憶が定かでないのです。姉と二人で家にいたときだったかどうか、家の窓ガラスが少し割れたかどうか、不確かでどうもはっきりしません。時間的に考えると、その時間には、既に登校していたのではないかと思われますが、学校でどうだったかも覚えていません。
私たちは、八月六日のその日も学校から中国醸造の会社に作業をしに連れて行かれて、いつもと同じように瓶洗いやグルコース砕きを続けたように思います。
次の日からのことだったように思いますが、中国醸造の敷地のすぐ西側に面して廿日市漁港があったのですが、その湾の中に、たくさんの人の死体が流れ着いてゆらゆら浮かんでいるのを見るようになりました。ほとんどみなうつ伏せで浮いて顔が見えなかったのを不思議に思って見ていました。中には女学生の制服姿の人もたくさん浮かんでいました。制服から見て県女の生徒さんであることがわかりました。
港の上の何人もの男の人が、ロープの先に鉄の鈎(かぎ)を着けたものを海に投げては死体に引っ掛けて、引き寄せては陸に上げておられました。会社の近くの空き地に死体がうず高く積み重ねられて、あっちこっちに山のようになっていました。その時の港に浮かんでいたたくさんの死体や空き地の死体の山は今でもはっきり覚えています。
何日かして、学校で私たちは、それぞれの住んでいる地区ごとに、家が近い者同士五人ずつの班をつくらされました。その班ごとに、市内に勤労動員に出ることになりました。私たち五日市駅の近くの友達五人の班は、電車に乗って古江まで行きました。窓から見える広島市内は丸焼けになっていました。
電車を降りてみてさらにびっくりしました。見渡す限り焼け野原が広がっていました。これから行く陸軍被服廠(ひふくしょう)の近くにある比治山がすぐ目の前に見えるのです。私たちは、緑の木一本もない焼けた瓦礫の中の一直線の道路(現在の百メートル道路)をまっすぐ歩いて比治山を目指しました。思っていたのと違って遠いので汗だくになりながら一生懸命歩き続けました。
私たちの前を歩いていく人が背負っているリュックサックに大きな黒いハエがびっしりととまっているのが目に入り、気持ち悪い怖さを感じました。今でもはっきりと覚えている光景です。また、馬の首だけが木にぶら下がっているのも見ました。体の部分はありません。とにかく至る所すごい匂いがしていました。
見上げるほど高いレンガ造りの大きな被服廠に着くと、それからは泊まり込みの作業の日々が続きました。着いた夜には恐ろしいほどの音を立てて大雨が降ったことを、恐怖心とともに今でもはっきりその怖さを覚えています。忘れられません。
次の日からは、陸軍で使っていた大鍋で炊き出しをしました。焼け残りの缶詰の牛肉とジャガイモや野菜を混ぜて炊いて肉ジャガのようなおかずを作りました。そして、たくさんたくさんおにぎりをにぎって、いっしょに火傷をしている大勢の人々やけがをした子供たちや、介護にあたっておられる人々に配りました。天井の高い建物のコンクリートの広い床には、足を踏み入れるのも大変なほどのたくさんの人たちが、カーキ色の固い毛布を広げて横たわっていていっぱいでした。
私たちは、看護婦さんまがいの手伝いもしました。看護婦さんに言われたように汚れた使用後の布を集めて捨てに行ったり、火傷やけがの人たちに包帯を巻いたりしました。ガラスや木が突き刺さっている人や傷口にウジがわいている人もたくさんいました。これまでほとんど怖さや辛さを知らなかった私たちは必死で一生懸命、夢中で働き続ける毎日でした。
夜になると火傷やけがの人たちと一緒に、コンクリートの床に毛布をひいて眠りました。苦しそうなうめき声や猛烈なにおいの中で眠りました。夜中、トイレに行きたくなると、友達三人くらい起こして一緒に建物の外に出て行って用を済ませました。私たちにはトイレなどなかったのです。用を足すのも死体の山のわずかな間で済ませなくてはなりませんでした。とってもとっても怖かったです。
五日働いたのか六日働いたのか、何日かははっきりしませんが、被服廠でくたくたになりながら一生懸命命じられるままに働いて、やっと家に帰ることになりました。また、焼け野原を歩いて古江まで行って、電車で帰りました。
そして、次の日からは、また廿日市の醸造会社に行かされました。会社の前を西の大竹方面に向かってぞろぞろぞろぞろひっきりなしに歩いて行くたくさんの人たちを見ました。大人も子供も、男も女も、みなさん、着ている物は汚れて破れてぼろぼろ、裸に近い人もいました。顔や腕や足にけがや火傷をして、皮膚は崩れている人がほとんどでした。そんな人がずっと続いたのです。
私たちは、会社の中から道路に出て、その人たちに飲み水をあげたり、バケツに水を汲んで使ってもらったりするなどの作業を何度も何度もしました。みなさんが水を飲んだり、傷のところを洗ったりされました。しかし、道路端で横になって動かない人も何人もおられましした。
そして、八月一五日だったのでしょう。会社のそばの広場にラジオが出されました。たくさんの人が集まって一緒に天皇陛下のお言葉を聞かれたようです。私はよくわからなかったのですが、どうも戦争が終わったということでした。
五<私の願うことは>
私は、女学校を卒業するとすぐ広島市内の会社に働きに出ました。それからしばらくして、地元の五日市の明治製菓に戻って仕事をしました。とにかく働いて働いて働き通しの日々でした。
その後、二十歳を過ぎて結婚の縁をいただきました。幼いころ早く父母を亡くした私は、嫁ぎ先のお父さんお母さんに仕えるのが喜びでした。尽くして尽くして時が過ぎ、お父さんお母さんに続いて夫もお浄土に還られました。そしてとうとう今に至りました。
私も、被爆者の一人として人生を生きてきました。私のような娘時代のつらい怖い悲しい体験は、今の人たちには出合ってほしくないと思います。今なお世界では、戦争やテロが続いており、たくさんの人が死んだり怪我をしたり、家を失ったり街を失ったりしています。核兵器も恐ろしいほどたくさんあります。これからのことを思うと不安な気持ちがとっても強く心配であります。どうか、戦争や貧困のない幸せな世界であってほしいと願うばかりです。
<聞き取りまとめ> 広島県廿日市市須賀2―12―1001
吉原 邦明(光禅寺 法務員) |