原爆に家族を奪われて
永い孤独な生活に耐えながら生き続けて六十四年、独りで生きて行く事の辛さを何度感じたことでしょう。袋町国民学校六年生の時、学童疎開で当時の三年生から六年生までの児童が三次の四つの村に行くことになり、そして、あの八月六日の惨劇に出会ったのです。広島市中心部の袋町学区の児童四百六十数名のうち十数名が、また、当時市内には三十六の小学校があり八千六百人余りの子どもが疎開したと聞きましたが、家族が助かったり、親戚に引き取られたり、施設に入ることができた児童を除く二千人余りが孤児になりました。
私は、広島駅の管理部に勤務していて奇跡的に助かった姉のお陰で孤児の仲間に入らずに済みました。しかし、その姉も半年後に白血病で亡くなり親戚の冷たい仕打ちに耐える生活が始まりました。二年後に満州の電機会社に勤務していた兄が、着の身着のままで引き揚げてきましたが、当時十八歳だった兄を伯父がすぐに自分の養子にしてしまい、私は戸籍上では孤児になりました。
言葉に言い表せない孤児の生活
十歳になるかならないかで一人で生きて行くことになった私ですが、あの広島の焼け野原の中、回りにいる人達も自分が生きることに必死で、他人の世話をすることなど有り得ませんでした。そんな中、孤児に生きる道を与えてくれたのがヤクザのお兄さん達でした。靴磨き屋台の手伝い、さらにくず鉄拾いなど、生きる術を教えてくれました。しかし孤児の数が多すぎました。生きるための食料が足りません。一個の黒い団子を求めて争いが耐えませんでした。結局、強い者が残り、弱い者は飢えと寒さでどんどん死んでいきました。年が明けたときには、孤児の数は数百人と言われました。
そうした中、私は、一生懸命働き続けました。二十三歳になった時勤務先の会社の社長が結婚を勧めてくれました。私は「結婚するなら好きな人と」と思い、当時付き合っていた女性の家に申し込みに行きました。しかし、彼女の親から言われた「貴方は広島で生活していたそうだね。あの時広島にいた者は皆汚染されていて、生まれてくる子も不具が多いそうだ。そんな男の嫁に娘をやることはできない」にはショックで返す言葉もありませんでした。好きな人と結婚できないと分かると何もかも嫌になり、仕事もやめ、ギャンブルに溺れ、自暴自棄になっていきました。そして三十歳を過ぎて本当に自分白身が嫌になり、誰も知らない所で死のうと思い、広島を去ることを決意しました。その時の所持金で行くことができた岡山駅を出た時、偶然にも「住込み店員求む」の広告を見つけました。この時ふとこの貼紙にもう一度新しい人生をかけてみようかと思いました。訪ねたうどん屋の主人は、「貴方が本当にやる気があるなら」と雇ってくれることになりました。それからの私は必死で、目の前にある仕事に全力を尽くしました。そして岡山での生活が二十年余り過ぎたときは、私は食品会社の責任者として百二十名のトップとなっていました。
そんなある日、思いがけず一緒に疎開していた袋町の仲間の一人から小学校の五十年の合同慰霊祭を一緒にやろうと連絡がありました。二十五年ぶりに広島に帰ったとき、本当にみんなが喜んで迎えてくれました。
その後、年に一度の会合を通して友人達が苦労しながら今日まで生きてきたことを知ることができるようになりました。同級生だった一人の女性は「七日ぐらいたったとき、疎開先に母親が迎えに来てくれたが、その時は顔中包帯に巻かれていて、目だけ出ていた。私は、この人は母さんじゃないと逃げ回って、母親も連れて帰るのを締めて帰っていった。その後、一週間程して親戚の人が迎えに来て母親が亡くなったことを聞かされ、私は一番の親不孝者だと自分を責め続けた」と涙ながらに君ってくれました。その他にも、あの時自分が生きるためには回りの誰かを倒さなければ生きていけなかった、死んでゆく友達を見ても何もしてやれなかったという辛い経験した人もいます。現在こうして普通の顔で生活していることにみんな罪を感じているのです。私が、これからの若い人達にこうした事実を伝えようと言うと、「あれから六十年余りが過ぎて人は時効だと言うけれど、俺達には時効はない。あの時は憎いから相手を倒したんじゃない。生きるためにしかたなくやったことだけれど、相手が亡くなったことは決して忘れることができない。俺達には今家族がいるが、お前が話せば子どもたちがそれを知って苦しむ。頼むから止めてくれ」と彼らは言います。
あの時の体験を語り継ぐことが私たちの使命
本当に辛い。しかし、あの時何の理由もなく死ななければならなかった人たちのことを、戦争の非人道性や悲惨さ、戦争で残された人々の苦しみをこれからの若い人たちに伝えることが自分の使命だと強く思うのです。その後、私は会社を整理して、七十歳にして再び広島に帰り、現在のボランティアをしています。
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