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お母さん、ありがとう 
吉田 智加江(よしだ ちかえ) 
性別 女性  被爆時年齢 6歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2017年 
被爆場所 専立寺(広島市金屋町[現:広島市南区京橋町]) 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 段原国民学校  1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
当時、私は段原国民学校の一年生で、父・松本龍助(四三歳)、母・コユミ(三七歳)、広島市第一国民学校高等科一年の兄・守人(一二歳)、三歳の妹・和子と金屋町一六四番地に住んでいました。また母のお腹にはもう一人子どもがいました。父は左官をしながら警防団の班長もしていました。妹は二歳の時に家の縁側から落ちて腰を痛めていたので、母がいつも草津の方に治療に連れていったりして世話をしていました。

私はお父さんっ子でとてもかわいがってもらっていたので、父の仕事がないときは、いつもそばについて回っていました。休みの日には家族みんなで歩いて新天地や福屋百貨店に行き、帰りには屋台で焼き鳥を食べさせてもらいました。また楽々園遊園地に行ってロバに乗せてもらったこともあります。父は魚釣りが好きで、釣りざおや針なども自分で作って、猿猴川と京橋川が分かれる台屋町の出鼻と呼ばれていた場所で魚やうなぎを取り、近所の人にもあげていました。とにかく世話好きで小まめに動く人で、近所の方から頼まれたことをしたり、お寺の世話をしたりしていました。また手先が器用で、ぽっくりという女の子が履く下駄を作ってもらいました。食べ物に困っていたという記憶はなく、疎開せずに家族皆で仲良く暮らしていました。

●八月六日
六日の朝、食事が済んだあと警戒警報が鳴ったので、父はいつものように警防団の身支度をして自転車に乗って出かけました。私は玄関先の格子戸のところからのぞいて、「お父ちゃん、いってらっしゃい」と見送りました。母と妹はずっと草津の方に治療に通っていたのですが、七月になると暑くなり妹が治療を嫌がるようになったので家にいました。その後警戒警報が解除されたので、兄は学校に出かけ、私は近所の友達と一緒に当時学校の分散授業の教室になっていた近くの専立寺に行きました。

専立寺は私の家の近所だった大きなお寺で、門を入ると築山があって、石畳がずっと続いていて、それから七段くらいの階段を上がると縁側があり、そこから本堂に入って行きました。お寺には段原学区の子どもたちが五、六人いたような気がします。まだ一年生だったので、勉強が始まる前に本堂では鬼ごっこなどをしていました。

その日もお寺の本堂で遊んでいると飛行機の爆音が聞こえてきたので、男の子たちが飛行機を見に中庭に駆け出しました。私もその後について廊下に出たときにピカッと光って周りが真っ白になって…それから後のことは全然分からないのです。気が付いたときには、上の方で人がバタバタしているのがかすかに分かったのですが、本堂の下敷きになっていて身動きできなくなっていました。

その時、私の家の斜め前に住んでいた上級生の男の子のお母さんが、「ゆきお!」と名前を呼んでいる声が聞こえました。いつも遊びに行っていて、よく知っている人でした。精一杯大きな声で「おばちゃん!」と叫びました。するとおばさんが気が付いてくれ、「智加江ちゃんね。待っときんさいよ。助けてもらってあげるけん」と言ってどこかに行かれました。それっきりまた気を失ってしまいました。

どれくらいたったか分かりませんが、母が駆けつけたときには、私はちょうど本堂の下から助け出してもらって、おばさんにおんぶされていたみたいです。母がお礼を言って私を抱き上げたときには、おばさんの顔はもうやけどで水ぶくれになり、大きく腫れていたようです。外に出ておられて、原爆の光を浴びられたのでしょうね。私はたまたま本堂が影になって、原爆が落ちた反対側にいたので直接光は浴びませんでした。しかし、頭の後ろと顔が裂け、手首とおしりにガラスが深く入り血みどろの状態だったようです。後でお寺の人や母から聞いた話では、男の人がのこぎりを使って本堂の柱や梁を切って助け出してくれたようです。私を助けてくれたおばさんの子どもは助かりませんでした。お寺で助かった子どもはよく覚えていませんが、私のほかは確か石屋の息子さん一人だけだったと思います。あとはどんな人がおられたのかまったく覚えていません。

兄は学校に行く途中で被爆して、八メートルくらい飛ばされたそうですが、飛ばされた所がちょうど防空壕の入り口だったので助かったみたいで、無傷で家まで帰ってきました。母は妹をかばって背中にたくさんの傷を受けていましたが、妹は母に抱きかかえられていたので無傷でした。しかし、父は帰ってきませんでした。

父のことが気になりながらも家の方に火が回ってきたので、母が私を、兄が妹をおぶって東練兵場へ向かって逃げました。私はもうろうとしていましたが、愛宕の踏切の辺りでたくさんの人がざわめきながら逃げていて、何が起きたのか分からず怖かったことを覚えています。雨が降って来たときや飛行機が飛んで来るたびに、どぶ川に隠れていたと後で聞きました。

夕方、母が私を抱いて、「ここまで連れてきたのに智加江を死なせてしまう」と嘆いていたら、一緒に逃げていた女の人に、「子どもさんが腕の中で亡くなられるのはまだ幸せだ」と言われたそうです。その方は、私と同じぐらいの子どもさんの手が挟まれていて、どうしても助けられなかったと言って泣かれていたようです。後で母からそのことを聞いて、私はこうやって傷を受けながらも生かされてもらっていると思い、涙が出ました。その晩は、近所の人と一緒に練兵場のどぶ川のほとりで休みました。

●父の死と終戦
七日の朝になり家に戻ろうとしましたが、熱くて近づくことができませんでした。夕方になってやっとがれきの中を歩いて家のあった所まで帰りましたが、家は焼けてなくなっていました。周りも何もなく、遠くに福屋百貨店だけが見えました。とりあえず近所のご夫婦がトタンなど集めてバラックを建てられたので、一緒に住まわせてもらいました。おむすびをもらって、みんなで分けて食べたことも覚えています。父は依然として行方不明だったので、母は警防団の事務所があった京橋町の保田の醤油屋さん辺りに行って父を捜し歩いていました。

九日の朝、遺体収容をしている兵隊さんが担架に人を乗せて来られ、近くで亡くなっていたから知った人ではないかと尋ねられました。頭は半分白骨化していましたが、わずかに残った警防団の服、襟章、「松本」の印鑑で父であることが分かりました。信じられませんでした。六日の朝に「お父ちゃん、いってらっしゃい」と見送ったのが、父と交わした最後の会話になるとは…。悲しみの中、母と一緒に比治山の下の松川町にあった亡くなった人を山のように積んで焼いているところに行きました。兵隊さんが父の遺体を運んでくれました。そこで「この中で名前が分かっているのはお宅だけですよ。だから別に焼いてあげますよ」と言われ、父だけは別に焼いてもらいました。

翌日、父の遺骨を持って芸備線で甲立駅まで行き、母の里であるおじの家に行き、お寺でお経をあげてもらいました。それから、おばあさんの里である吉田町まで歩いて行きました。途中のことはあまり覚えていませんが、休み休みずっと歩いて、休んだときに食べた白いおにぎりがとてもおいしかったことだけは覚えています。すでに両方とも祖父母はいなかったので、そこにいることもできず、一夜泊めてもらい、何もない広島にまた戻らざるを得ませんでした。帰りに吉田口駅に着いたとき、終戦のラジオ放送が流れたところだとみんな泣いておられました。でも、戦争が終わってよかったと思いました。

●戦後の生活
広島に戻ってしばらくは、近所の人に助けられながらバラックに住まわせてもらいました。食べ物が十分になく、宇品の缶詰工場からもらってきた焼けた缶詰を食べたり、東雲や仁保の方の畑に行って野菜をもらったりしました。また大根を小さく刻んでお米を少し入れて、おかゆのようにして食べていました。その後、私たちが大変苦労していることを知った叔父(母の腹違いの弟)が田舎から出てきて、父には生前お世話になったからと、家が元あった場所にバラックを建ててくれました。六畳一間に一畳ぐらいの板間の台所があって、かまどは庭にあるような家でしたが、やっと家族水入らずで住むことができるようになりました。

秋に入る頃、おしりの傷が化膿し始めて痛くてたまらないので、本川国民学校の救護所へ行って、切ってガラスを出してもらいました。今でもおしりのガラスが入っていたところの肉はなく、長く座ったり、歩いたりすると痛みます。手のガラスは中学のときに傷跡のところにきて化膿し始めたので、京橋近くの外科で切って出してもらいました。

母は昭和二一年三月に弟の忠信を出産しました。乳が出ないので、弟にはお乳のかわりに重湯を飲ませたりしていました。その頃、二歳ぐらいの子どもは肝臓が腫れて亡くなることが多かったのですが、弟も二歳のとき、肝臓が腫れて、比治山の下のお医者さんに診てもらって助けられたことがあります。それによく鼻血も出していました。

母は一人で四人の子どもを育てるため、とにかく働き詰めで、具合が悪く腫れた体でも弟を背負って日雇いの土木作業に行ったりしていました。また駅前のヤミ市でところてんやあめを売ったりもしていました。その後も新聞の集金や掃除の手伝い、お盆のときの灯籠売りなど家族が生きていくためにいろいろな仕事をしていました。私も母を助けて家事をし、灯籠売りも手伝いました。

兄は学校に通うのを辞め、京橋に古くからあって懇意にしてもらっていた瀬戸物屋で店員として働くようになりました。

春になり、私はこれまでけがをして具合が悪くほとんど勉強していなかったので、もう一回一年生をすることになりました。学校は休まずに行きましたが、学校から帰ったらずっと弟や妹の世話をしていました。少しずつ配給なども始まり、親が亡くなった人は、食べ物も少し多めに分けてもらったり、草履をいただいたりしました。父が世話好きだったので、父が亡くなった後もいろいろな人たちが私たちのことを気にかけてくれました。でも父親がいる家庭は新しい家を建てて生活も安定していて、うらやましく思いました。近所の老夫婦のところも息子さんが兵隊から戻ってきて家を建てられました。とにかく何かあると、お父さんさえ生きていてくれてたらと思っていました。

中学のときに、金屋町の家は戦後復興の都市計画に基づく区画整理事業により、駅前通りの用地となり、立ち退きをすることになりました。区画整理事業は、元あった土地を減らして、道路などの公共事業用地に充てる制度で、私たちのような小さい土地の場合には、お金を出して広い土地をもらうか、土地を売り払うしか方法がありませんでした。お金もないので困っていると、二軒分の土地を合わせれば一区画の土地がもらえることになり、比治山町の広寂寺のそばに、もう一人の方の家の裏の方に納屋のような家ですが、建てさせてもらうことができました。

●「原爆の子」に選ばれて
小学校の担任の先生も父親を亡くした私たちを気にかけてくれていました。六年生のとき、先生から「原爆を体験した子どもたちの手記を集めているので、何か思うことを書いてごらん」と言われました。私は書くのが苦手でしたけれど、とにかく母を少しでも笑顔にしてあげたいと思って、ありのままを書いてみました。

手記を集めたのは、広島大学教授の長田新先生で、子どもたちが原子爆弾によって何を体験し、何を感じ、何を考えているか、子どもたちの体験記を集め、平和教育のための研究資料とするためでした。広島市内や近郊の小・中・高・大学生から集められた体験記は一,一七五編で、うち一〇五編が岩波書店から「原爆の子―広島の少年少女のうったえ―」として昭和二六年一〇月に出版されました。

私は自分の作文がまさか本に載るとは思ってもいなかったので、びっくりして、とにかく恥ずかしいという気持ちがすごくありました。選ばれた子どもたちは、広島大学文学部に呼ばれて、長田先生から一冊ずつ本をいただきました。

今になって一番悔やまれるのは、住むところを転々としているうちに、いつのまにか母がその本をなくしてしまったのです。母も余裕がなく、生活が大変だったのだと思います。

●母への感謝
父を亡くしてからの生活はずっと苦しかったので、私は結婚なんかせず母を助けていこうと思っていました。ところが灯籠売りの手伝いをしていた時、そこの方が今の夫との縁談を持ってきました。やっと初めてもらった給料で整理たんすを買って、これからというときでした。しかし、母は年頃の娘がいつまでも家にいたら世間体が悪いからと、母に言われるままに見合いをしました。夫には断られてもいいと思って洗いざらい見てもらおうと、恥ずかしかったのですが、納屋のような家にも連れて行きました。妹は、「お姉ちゃん、ようこんなところに連れてきたね」と驚いていました。

夫は北海道生まれで、戦後、広島に来たので、原爆のことはほとんど知りませんでした。私は髪で隠していましたが、顔に原爆の時の傷も残っています。縁談のお世話をしてくれた方には、「原爆にあったこともちゃんと話してください」と言ったのですが、夫には伝えていなかったようです。

でも縁に恵まれて結婚し、おかげさまで夫とは今年で五六年になります。夫は亡くなった父と似ていて、細やかで家でもよく動いてくれます。

その後、兄も妹も弟もみな自立して、家庭を持ちました。亡くなった父が見守ってくれているのかなと思います。子どもたちが自立した後、母は一人で比治山町の家に住んでいましたが、年を取ってからは兄の家族と、そして最後は弟の家族と住んでいました。

いつだったか、母がもう泣くに泣かれなかったとちらっと言ったことがあります。戦後の厳しい生活の中、母が女手一つで一生懸命働きながら苦労して四人の子どもたちを育ててくれたから、私たちもこうやって生きることができたのだと思います。

●奇跡的に生きて
被爆してすぐのことですが、お寺の下敷きになっているときに助けてくれたおばさんが府中の病院にいることを聞いて、お見舞いに行きました。やけどした顔にウジが湧いて小さい子どもに見せられる状態ではなかったようで、会わせてもらえませんでした。

母だけが会いました。あの日、おばさんが「ゆきお!」と呼んでいる声が耳に入ったこと、そしておばさんが私の声に気が付いて助けてくれたこと、本当に奇跡で、私は今こうして生きているのだと思います。

またあの日、母と妹が草津の方に治療に行っていたら、原爆投下時はちょうど電車が相生橋を通っていた頃だったので助からなかったと思います。もしそんなことになっていたら、兄と私は今のような人生を送っていなかったと思います。

●平和への思い
人前で話をしたりするのは苦手なので証言活動などはしていなかったのですが、被爆五〇周年の時に、今の若い子たちにこんな思いをさせたくない、絶対に戦争や核を使った爆弾なんかは私たちだけで終わらせなきゃいけないという思いがあって活動を始めました。

原爆で父を亡くした後は言葉では言い表せられないくらい苦労しましたが、なんとか生きて、私自身、結婚して子どもも二人授かり、今では孫もいます。本当に今があるということは、これまでのつらい思い、悲しい思いを忘れてはいけないことだと思います。少しでもこの思いを伝えることで、一人でも多くの人たちに平和を願ってもらえたらと思います。平和を願わないと戦争が起きてしまいます。そして絶対に核だけは使ってほしくないという思いが強くあります。

核だけではないですよね。今は本当に台風や地震など自然災害により家族や家を失って、つらい思いをされている人もおられるのに、いまだに世界では、人間同士が戦争を起こしているのを見るとたまらなくなります。どうして分かってもらえないのか、話し合いで仲良くできないのかと思います。
  

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