国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
炎える弟 
鳥谷 桂子(とりたに けいこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1969年 
被爆場所 三菱重工業㈱広島機械製作所(広島市南観音町[現:広島市西区観音新町四丁目]) 
被爆時職業  
被爆時所属 挺身隊 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
死骸から
青い炎が
ぽー ぽー と 悲しい声を上げた。
その一すじの煙に 乗って
重たい雲の中に 登っていった 弟よ。

昭和四四年一〇月 誌す
桂子

昭和四十四年十月、テレビの芸術祭参加作品「碑(いしぶみ)」をみて、弟たちがどうゆう風に原爆によって死んでいったかということを、考え残して置きたいと思う。

この「碑」は松山善三脚色による、杉村春子の物語りで始められた。当時広島県立第二中学校一年生と教官合せて三百二十人全員死亡の悲しい記録である。二十五年も経た現在、私自身原爆の被爆者であり乍ら、行方不明の弟たちの本当の事実を知らなかったのと、想像していたのとは、全く違った事実が判明したのだ。この「碑」にもとずいて、私は私なりの事実に最も近い想像で、弟が如何にして死に到ったかを考えてみたい。残してみたいと思う。

広島に原爆が投下された時刻は、昭和二十年八月六日八時十五分と記録され、当時は他市が次々にアメリカの爆撃にあっているにかゝわらず、広島だけはまだ一発の爆弾にも見舞れていなかった。何十機のB29が上空を通りこしていくだけの非常に緊迫した、いづれは来るだろう空襲を予期していたのだ。だからこそ、家屋疎開をして非常の場合を考え、そのために派遣された義勇隊や、学生などが入りくみ、市内は平素より人口はふくれに、ふくれていたようだ。八時十五分といえば、今から仕事が始まり、職場につく時間である。この時、その時である。米陸軍のB29三機は高度約八、五〇〇米の北東方面の山ひだの空に現われた。

この内一機が市内上空五七〇メートルに於て、原子爆弾を炸裂させた。ほゞ市内中心地に当る。一万分の一秒に生じた温度は三〇万度といわれ、同時に生じた直径六〇メートルの火球は、想像も及ばない高温のため、空気を異常に膨張させ、強烈な衝撃波を生じた。天も地もひっくり返す破壊作用を起した。この高温の火球が発した熱により人体も物体も焼けたゞれたのである。普通強力爆弾の火薬二万トンにも相当するといわれている。以後これは放射障害や原爆症を残している。三方山に囲こまれ、中国山脈より発した太田川は東洋一といわれた三角州(デルタ地帯)をかたち作り、七つの川が扇形に広がっている。それが広島だ。全市八〇パーセントの地を焼き、二〇数万人が死んだ。

この時、尚武(しょうぶ)のいた二中の一隊は、七つの川の中央である本川の土手、丁度「新大橋」近く、それは現在少し東寄りの平和大橋になっているが、その南側に整列していたようだ。

B29が真正面の北東の位置から向い合ったことになる。三機の飛行機を生徒たちは目撃している。警報も出ていなかったし、何だろうと思い乍ら、自分の国の飛行機だと思ってみていたのだろうか。突然例えようもない尖光と言い知れぬ悪魔の叫びに、一様に吹き飛ばされ、極まりない爆風はあらゆるものをこっぱみじんに砕き、天高く舞わせた。そこは爆心地だ。耳をふさぎ、目をしっかり押えた手を離さず、地にうっぶせた防御体制のまゝ、即死した人々が、ぼろ切れのようにころがっていた。一瞬の時に生きた人が聞いたのは「水に飛びこめ」という声であった。それは、先生の声だったかも知れない。義勇隊の人の声であったのかも知れぬ。とにかく目の前は川なのだ。一瞬の光線で全身は一様に焼けただれた。またゝく間に火は全市を這いまわる。

川に入った子供たちは、上から襲いかゝる火を水にもぐっては防いだ。昼間の干潮から夜の満潮になると、板切れにつかまっていた。

石垣につかまっていた。子供たちばかりではない。水を求めて数知れぬ人が入水した。その焼け爛れた水ぶくれの皮膚は破れ、目ははれ上って、つぶれてしまう。水がほしい、水がほしい。力尽きた人たちの浮んだ、腹を上向けて死んだ人や、うつぶせて浮びつ沈みつ流れていく川の水を飲んだ。やがてその人たちも力尽きて海に流れていくだろう。

夜が来ても、昼よりも明るい位よくもえた。「お母ちゃん、お母ちゃん」と子供たちは泣いた。まだほんの尻の青い子供なんだ。
でも「僕たちは兵隊さんと同じように国を守らなければならないんだね」と信じていたから、川の中にいる子供たちは、みんなで力をつけあいながら「海ゆかば、水つくかばね」を歌った。「キャンデ(アイスキャンデ)がほしいなー」「からだの中の骨まで焼けているみたいで苦しい」夜が明ると、土手に下りる石段の上には、まるで雛壇の雛のように並んだまゝ人は死んでいた。子供の一人は先生と一緒に手を取り合って、川から這い上った。先生は云った。「俺はもう駄目だ。死ぬだろう。しかし君の怪我は浅いから、頑張って逃げろよ。逃げられるだけ逃げるんだ。」

しかし、泣き乍ら別れた二人も数時間は持たなかった。天も焼け、地も焼け、皮膚も焼け、炎天のもと、木すら一本も残っていないところで何で生きることが出来ようか。

ある子は、土橋の停留所の市電のカーブになっているところで、焼けた鉄骨だけの電車の中で死を待っていた。その子の家は郊外だったから、近所の人が親類の身内の人を尋しに来て、その子を見つけ出したのだ。引き返してその母親に知らせたけれど、市内は火勢が、ますます強くて近寄れない。二日目の夕方になって母親はその子を見つけ出した。動くことも出来ぬ死をただ待っているその子を抱いて一晩中どうしてやることも出来ずに泣いていた。ずるむけて背負うことも出来ぬその子をどうやって家に連れて帰ることが出来るだろうか。先に見つけてくれに近所の人に田舎からリヤカーを借りてもらうように頼んでおいたけれどそれもなかなかこない。

やっとリヤカーを持ってきてくれた人に助けられて家にむかったけれど、その途中で息を引き取った。

「僕は頑張たんだね。兵隊さんと一緒なんだね」と何度も念を押した。それからうわ言を繰返し乍ら、死んでいった。

或る父親は、現場まで子供をむかえにいった。その子は府中という市街地から学校にきていたからだ。広島の市内が炎につゝまれた時、その父親はその場所に行くことを決心した。朝出る時、「県病院近くの家屋疎開にいく」と子供が云っていたからだ。その子は、父親が思っていたように、じっとその場を動かずに誰かがむかえに来てくれると信じていたのだ。

動くと尋ねてもわからなくなると待っていたのだと云う。父親は夜になってその場所に着いた。大声で子供の声を呼び歩いた。その声に、はっきりした声が返って来た。父親は、「しめた!」と天にも登る心地がしたという。けれど子供の目はつぶれ、着ていた中学生の服はぼろぼろに引きちぎれ、その間から焼けただれた皮膚は、これが吾子だとは信じられない程で変らないのは声だけだった。

「むかえに来てくれたんだね、本当にむかえに来てくれたんだね」と父親の背につかまり乍ら、「キャンデーが食べたい」とうわ言みたいに云い続け乍ら家に着いてその翌朝に死んだ。

自宅の庭に家族が寄りそってだび(火葬)に附したのだ。葬式を出してやることも出来ない。自分たちの手で焼くこと以外に方法がない。それ以外に何もしてやれない。つらい。

二、三日の間に三百二十人は全員死亡したことになる。一番長く生きた三日目の死亡者の家族はこう云っている。宮島沿岸の家まで自力でたどり着いた子供は、家族に看とられながら一人一人に礼をいいながら死んだという。母親が「鹿児島のおじいちゃんには、どう云うの」と聞くと「立派に……」とあとは続かず死んだという。立派に死んで行ったということなのか、いかに、いじらしく、悲しい話を涙ながらに聞いた。

私の弟たちはさて、どこをのた打ち歩き、どの辺りで死んでいっただろうか。尚武のことから考えてみることにしたい。私の二番目の弟だ。先ず徳松伯父のことから始める。徳松伯父は舟入町の私の家の近くに住んでいた。その隣が妹の貞子叔母の家である。

徳松伯父は家族を島に疎開させていたし、貞子叔母の夫は兵隊に、子供(敏夫君)は、私の母と一番下の弟と共に、奈良の病院に疎開していたのだ。

朝八時十五分、二人は食事をする為に向き合って座っていた。その時ピカドンに襲われた。一瞬の尖光と共に起きた暗黒の中で二人は家の下敷になった。貞子叔母は「兄さん足をのけて、私を踏んでいる。苦しい。」といった。家の下敷で梁に押さえつけられているのに、兄さんに踏みつけられていると思ったのであろう。「わしと違うんじゃ、わしぢゃあない」と叫び乍ら一生懸命にもがいていた。貞子叔母は何時の間にか、何も云わなくなってしまった。あちこちより、火が燻り出した。早う出てしまわなけりゃあ死んでしまう。熱い、気が狂うばかりに熱い。すると、どこからともなく、一すじの光がさしてきた。隙間からの光なのだ。それを頼りによじ登った。何如にその時間がどれほど長かったことか。その光を手でつかもうとしてどれほどの時を過したことか。家の外にころがり出た時、徳松伯父は百数十ヶ所の傷を負っていた。腹わたは飛び出し、口はガラスの破片で左右に裂けていた。歩けない。鬼のような形相であった。しかし命のある限り逃げたいと思った。そばを逃げていく人たちは合掌しながら伯父を見ていた。漸く土手まで来た時は気を失ってしまった。何時間たったか気がついた時は、防空壕に中に寝かされていた。誰かが、炎える火をさけるために防空壕の中に運んでくれたものらしい。そこへ近所の人が来て「平井さん、これを飲みんさい。あんた、気の毒なけど、とても助かる見込みはないけん、ウィスキーを口に入れて上げるよ」とウィスキーを流しこんでくれた。この人は別れの水さかづきのつもりでもあったのだろう。

このウィスキーはその人が隠し置いた土の中から掘り起して出して来たという。不思議なことが起きたのだ。幸いかな、そのウィスキーの死のさかづきが伯父を助けたのである。伯父は今でも、そのウィスキーをのんで助かったと信じているし、後になって医者も「きっとそのウィスキーが毒消しになったんだろう」と云った。助かるべき筈もなくこの人が、生きのび、そのウィスキーをくれた人は一週間たらずで何の怪我もないのに突然死んでいった。放射線による死亡ということである。

伯父は死ぬことを少しも恐しいとも思わなかった。動けぬ身を炎えさかる火を背に負い乍ら、無心に朝を待っていた。

陽が上る頃となると待ちわびた他市や近くの村々から救援隊がどんどん入り込んで来た。鍬をもち、板切れ、担架を持ち、腰に何やかとぶらさげて、一人一人のぞきこみ乍ら、死んだ人は穴を掘ってその中に投げ込み、十数人位石油をぶっかけて焼く。あちこち四方八方の火葬の中で燻り続け、炎え続ける。煙は地を這い、足の踏み場もない死体と、怪我人は泣き叫ぶ気力を失いながら、うごめいている。数人の兵隊が来て、伯父をのぞきこみ「こりゃあ死んどるぞ」と云った。

この時ほど「命がほしい」と切実に祈ったことはなかったと伯父は云っている。

「わしは生きとるぞ」と大声でいったけれど、はっきり言葉になっていたかどうかわからない。とにかく生きていて、大きな目玉をギョロつかせたのだから、その人達は「生きとる、生きとる」と言い乍ら担架にのせて、何処かへ運んでいった。頬がさけて、頸を自由に左右に動かすことも出来ないし、ただ人のなす通りになっているのだから、それにどこを向いても焼け野原だから一向に方角も定かでない。漸くそこらに沢山の人のむれの中に置かれていた。そこは土手だったように思う。始めにいた土手ではない。今考えてみると、新大橋の本川側の土手ではなかっただろうか。その時である。「おじちゃん」という声がした。それが尚武だった。

「尚武か、尚武か」

「はい」

「早うここえ来い。」

「おじちゃん僕もう動かれんけえ、そこへ行かれんのよ。水が飲みたい、水をちょうだい」

「待っとれや、誰かに飲ませてもろたるけん」

誰一人頼む人もいない。皆きずついて動けないものばかりだ。次第に伯父も意識不明になっていった。どの位の時間がたっただろうか。

ふと気がついた時、側の人に聞いた。

「さっきの子居りますかいのう」

「いやいや、あの子は死んで何処かへ運ばれましたよ」

死んで運ばれてどこかで燃やされるのだろう。

声だけ聞いて顔は見ることも出来なかった。たった一人の肉親だというのに。

尚武はみんなと一緒に川につかっていただろう。黒こげの肌に血をしたゝらせて、川ぶちのがけにしがみついていただろう。朝になって橋を渡り、倒れながら歩き這い、吾家をさがしに行こうとしただろう。それは友達と二人づれだったらしい。近所の子と同じ学校で親友だった二人づれで、手をつないで死んでいたらしい。原爆の落される一週間前に、父は召集で、母は掖上の病院に入院したのだ。父母のいない家まで帰ってみて、何を求めたというのだろう。姉の私を求めて、二つ上の中学三年の兄を求めて歩いたのだろう。砂も焼け、足も焼けてくる道に、焼けたゞれた両手を蟹のようにまげたまゝの同じ姿勢の人間が寝そべる。いつの間にか息がとだえる。

誰にもみとられることもなく、あれだけ求めた水も一滴すら与えられることもなく、「お母ちゃん、お母ちゃん」と涙に頬を濡らして冷たくなってしまっただろう。

冷たい頬に何すじかの涙のあとがついていただろう。いやいや、焼けたゞれた頬にすじなどつくこともありゃあしない。

尚武は青い炎を出して天に上っていった。

父は四国の軍隊から急を聞いて、子供を探しに帰って来た。一等兵の古兵殿、足を棒にしても骨一つひらうこともなく、一ヶ月もたった頃、現場には骨が沢山積み上げられ

「どうぞ御自由にお持ち帰り下さい」と立ふだがしてあって、人々は死んだであろうわが子、わが親、わが兄弟の骨だと思いあきらめて一つでも持って帰った。二中にある名簿には、当時どうして届けられたのか、尚武の名前が、はっきり残っていた。手をつないで死んだ友と一緒に名を連らねている。伯父は尚武と逢ったその翌朝、妻の実家の兄たちによって、見つけられ、持ち舟で三時間もかゝる瀬戸内海の能美島まで助けられた。舟の中で何度も脈は止まり、また動き、奇跡に近い生命の復原をみたのである。数年後過ぎても、からだの処々から急にガラスの破片が出てきて驚かされる。

次に私のもう一人の弟、すぐ下の二才年下の弟、義生(よしいく)については何一つたしかな情報もない。家の二軒目に「まつや」という小料理屋があって、そこの小母さんに「お早う」と挨拶して通ったということを、馨叔父が聞き出している。馨叔父(貞子叔母の夫)は和歌山の軍隊より急を聞いてかけつけた。

丁度私の父と同じ頃広島に帰ったことになる。この「松屋」の小母さんに逢ったのだ。気の転倒した同志だから、原爆の落ちる以前十分前に逢った事実が、どう間違ったものか、それ以前に逢ったように伝えられた。馨叔父は、うちの家の防火水槽の横に、焼けた木片の炭で「尚武(しょうぶ)健在なり」と書いたのだ。尚武でもない。義生でもない。二人は死んでいるのに、それを父が自宅前でそれをみて、懸命に尋ね廻ったのだ。父は逢いたかっただろう。切なかっただろう。父はそれ以後余計酒に溺れていった。父も叔父も二日の休暇だったから、すぐに軍隊にかえらねばならなかった。広島に心を残し乍ら。八月十五日の終戦迄に十日もないのに、もう少し早く終戦になっていたらこんなこともなかったろうにと、くやしくて残念でたまらない。しかし原爆が終戦の口火になったというのだから、と心に云いきかせてみても、私の広島は、私の弟たちも、私の家も帰ってはこないのだ。心の中まで焼き尽してしまった。この原爆に、私は希望も、夢も、生きる力さへ失いつゝあった。

さてこの義生はその三日前から、からだの調子が悪く医者に心臓脚気と診断された。千田町の糧秣しょへ、勤労奉仕に行くことゝなっていたのに、病気のため休むことにした。この日休まなかったなら、もしかしたら千田町辺りだったら助かっていただろうと思われる。同級生は多数助かっているのだから。

「まつや」の小母さんに聞きただすすべもなく、その小母さんは、十日余り生きただけで血を吐いて死んだそうな。「お早よう」と声をかけて義生は土橋停留所前の笹岡医院に向っていた。江波線の市電づたいに土橋は己斐線に十字路になり、丁度その四つ角にあった。その病院の家の下敷になったか、もしくは、途中の路上にあったかも知れぬ。医者の家族も全滅して誰一人助かっていないから、おそらく即死の状態であったろう。原爆中心部よりわずか五〇〇メートルの距離にある。

弟たちよ、姉の私は己斐へ逃げた。南観音町の三菱重工業から、一もくさんに火に追われて逃げた。カバンの中にたった一つの薬だけ大切ににぎりしめて、お前たちにあって、もし怪我をしていたらつけてやろうと思い乍ら、絶対に死んではいないと心に云いきかせ乍ら、その翌日も翌日も、宮島から市内まで何里も足から血をしたゝらせながら探した。

死んだ人の顔を一人、一人、のぞきながら歩いたのに、君たちは私に逢うこともなく、死んでいった。いつまでも忘れることもない想出を胸一杯に抱いて、短かった、あなたたちの命に限りない愛を、私の人世にいっぱい飾って上げよう。母はあなたたちの後にすぐ逝った。毎日泣いて泣いてあなたのそばに行ったのだ。今は父も逝った。父と母とあなたたちは苦しかった来し方よりも今は満足そうに私たちを見ていることだろう。

私は現在を考えながら歩く。とぼとぼと未来を知らずに、ひたすら歩いていく。
  

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針