●被爆前の暮らし
私は大正一三年に空鞘町(現在の中区本川町)で生まれました。父・清水栄吉は建築請負の仕事をしていました。私が一歳のころ自宅の前の通りで大火事があり、三〇軒近く家が焼けてしまったことがあります。我が家は幸いにも火を免れ、父は焼けた家を新築する仕事に携わりました。その仕事によってまとまったお金が手に入り、父の故郷である東京の浅草へ家族で遊びに行きました。
私は四男五女の九人きょうだいの末っ子でしたが、三男、四男、四女は早くに亡くなり、長女、次女、三女は嫁いで家を出ていました。被爆の数年前に長男が肺結核で亡くなり、次男は出征して大連へ行っていましたので、被爆直前は父・栄吉と母・ミネ、長男の子である七歳の甥・祥司、四歳の姪・幹子、私の五人で暮らしていました。家があった場所は、現在は空鞘神社の隣の公園になっています。
戦争中は、食事に困る日々でした。父はリウマチを患い、建築の仕事が次第にできなくなっていました。次男も父と同じ建築の仕事をしていましたが、戦争に行ってしまい、働き頭がいなくなってしまった我が家は貧しい暮らしをしていました。普段の食事はよもぎご飯や大根飯なのですが、水をたくさん入れて炊き、お粥のようにして食べていました。そうすると少ないお米でも大きく膨らみ、たくさん食べた気になるというものだったのですが、甥や姪は小さな頃からずっとひもじい思いをしており、とてもかわいそうでした。学校へ行く甥のためにお弁当を用意した時、朝食が少なくてお腹が減っていた甥は、学校へ持っていく前にそのお弁当を食べてしまったこともあります。田舎の人が父の大工道具とお米を交換してほしいと言ってくることもありましたが、父は「闇米は絶対だめだ」と断っていました。
私は本川尋常小学校の尋常科へ六年間通いました。一番目の姉は私と年が離れていましたので、その姉の子どもは私にとって姪なのですが、同い年でした。その姪も本川小学校へ通っており、六年ずっと同じ組でした。同じ布から作ったおそろいの着物を着て学校に行くと「双子のようだ」と言われていました。私たちは本当に仲が良かったのです。本川小学校の尋常科を卒業後、高等科へ進学しました。
高等科を卒業後、基町(現在の中区東白島町)にある広島逓信局で一六歳から給仕として働きました。働いていたのはみんな私と同い年くらいの子で、三〇人くらいいたと思います。セーラー服が支給されていました。主任に集められて話を聞く時は、「今日もお説教があるよ」と冗談を言い合いました。給仕の仕事は楽しかったです。
給仕として二年間働いた後、職員になるための試験を受け、合格し、職員として逓信局の貯蓄部へ勤めました。貯蓄部では主にそろばんを使い郵便局の貯蓄に関する監査などの仕事をしていました。
貯蓄部は女性職員の多い職場でした。白島に安い写真館があり、同僚と仕事帰りにその写真館でよく写真を撮りました。原爆の落とされる一〇日前くらいに、宇品にあった同僚の知り合いの家が留守で誰もいなくなるため、その家を借りてみんなでお泊まり会をしました。お米を一握りずつ持ち寄って食事をして、アッパッパ(ワンピースのような簡易服)のまま海岸へ行って流行の歌を歌いました。宇品は陸軍の船舶部隊の基地があった場所です。すぐに憲兵に見つかり、「お前たち、もんぺもはかずに何をしているのだ」と怒られてしまいました。戦争中でしたが、その夜は一晩大騒ぎをして、とても楽しかった思い出が残っています。
●八月六日
八月六日は仕事を休む予定でした。空鞘町の自宅が建物疎開で取り壊されるので、手伝いをするために八月四日、五日、六日の三日間休みを取っていたのです。しかし当時逓信局では職員が順番に休みを取っており、私は八の付く日が休みだったため、「あと二日したらお休みだから今日はやっぱり出勤しよう」と思い、出勤することにしました。母は出勤する私に、大根飯の上にじゃがいもを乗せたお弁当を作ってくれました。
出かける前、父から不祝儀袋に名前を書いてくれ、と頼まれ「今日は出勤しないといけないのに」と言いながら書きました。
家を出たのは朝の七時前だったかと思います。母はいつも私に「あなたは若いからいつ空襲があっても私たちのことは心配しないで、一人でも逃げて。子ども(姪と甥)の面倒は私たちが見るから、心配しないで」と言っていました。その日も母は私にそう言いました。母が私のエプロンの布で作ってくれた、新しい鼻緒の下駄を履いて出かけました。母はその日、私が見えなくなるまでずっと見送ってくれたのを今でも覚えています。それが父母との最後の別れでした。家を出た時、B29が一機、私の家の真上の空から飛び去っていくのが見えました。
勤め先の貯蓄部は逓信局の四階にありました。仕事を始める前に、陸軍幼年学校へ面した西側の窓際で同僚の東明枝さんと渡辺和子さんと話をしていました。暑いね、と言い汗を拭きながら話を続けていると、香川主任に「お前たち、始業時間になっているのにまだ話しているのか」と叱られました。あわてて窓から離れて自分の席へ着こうとした瞬間、後方から激しい光と、ドンという衝撃を感じました。その瞬間は何が起こったのか分かりませんでした。気が付いて周囲を見渡すと、同僚たちがほこりまみれになっており、私の背中や右手の指から腕にかけてたくさんのガラスが突き刺さっていました。窓から離れたおかげか、顔は無傷でやけどもしていませんでした。その時は建物が大きくて立派だから逓信局が狙われたのだと思い、他の場所でも被害があったとは思っていませんでした。逓信局の建物は崩れていませんでしたが、このまま逓信局にいたらまた攻撃があるかもしれないと思って、階段を伝って四階から一階へ下りました。壁には先に下りた人たちのものと思われる血の手形が、べったりとたくさん付いていました。建物の外に出ますと、あちこちで火の手があがっていました。その様子を見て初めて、逓信局だけが狙われたわけではないと分かりました。
●縮景園へ
私の住んでいた地域では、空襲があった場合は安佐郡川内村(現在の広島市安佐南区)へ逃げることが決まっていました。川内村へ向かうためにまずは横川へ行こうと思い、同僚の川地さんと一緒に安田高等女学校の前を通って横川方面へ向かおうとしましたが、火が回っていて道が通れず、一度逓信局へ引き返すことになりました。逓信局へ引き返した時、同僚の平本美智子さんが燃え盛る庭木へ一生懸命に防火用水の水をかけていました。彼女はとても正義感の強い女性だったため、このような時でも、庭木から逓信局へ火が移ってしまうかもしれないと考えると、見過ごすことができなかったのでしょう。私や他の同僚が「早く逃げないと」と言っても、平本さんは「どうして逃げるんね。消さにゃ、消さにゃ(消さなくちゃ)」と言い、水をかけ続けていました。後から聞いたことですが、彼女はその後焼死されたそうです。
周りのみんなが縮景園へ向かって逃げていたため、私たちも縮景園へ向かいました。途中で右足の下駄の鼻緒が切れてしまい、ちょうどそばにわら草履が落ちていたので、右足だけわら草履に履き替え、左足は下駄を履いて逃げました。逃げる途中で防火用水の中で投げ出されて死んでいる赤ん坊や、やけどして手を合わせて「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と祈っている老人を見ました。
●縮景園の惨状
縮景園には二部隊の兵隊さんたちも多く逃げて来ていました。原爆が落とされた時、朝のラジオ体操をしている時間で下着しか身に着けていなかったためか、みんな上半身裸でひどいやけどを負い、性器が腫れあがり、体や腕の皮がわかめのようにぶら下がっていました。「水を飲んだら死ぬぞ」と周りの人が叫ぶのも聞かずに、「水、水」と汚い泥だらけの水を手ですくって飲んでいました。
ある傷ついた兵隊さんに、「鉛筆を持っていたら、この手拭いに私の名前を書いてほしい」と頼まれました。川地さんが鉛筆を持っていたので、手拭いにその兵隊さんの名前を書いてあげました。きっと死んでしまったあとに誰なのか分からなくなってしまうことを心配したのでしょう。逃げて来たたくさんの兵隊さんが、縮景園で亡くなったと思います。
縮景園の中も木が燃えていましたが、川土手には火が来ていない場所がありました。まだ一六歳か一七歳くらいの青年が小さな船で常葉橋の下まで人を運んであげていました。その船に一度に乗れるのは一〇人程度だったため、青年は何度も何度も縮景園の川土手と常葉橋の下を往復していました。私たちもその船に乗せてもらおうと川土手で順番待ちをしていますと、黒い雨が降ってきました。私は逃げる時に防空頭巾を持って出ていなかったのですが、川地さんが他の同僚のために持って出ていた防空頭巾を貸してくれたので、それをかぶって雨をしのぎました。
●川内村へ
夕方まで縮景園で船に乗る順番を待ちました。やっと自分の順番が来て、兵隊さんたちと一緒に船へ乗せてもらい、常葉橋の下へ渡ることができました。船で渡してもらった後、燃えている枕木の上を線路伝いに歩いて横川の方へ向かいました。兵隊さんたちも同じ方向へ逃げていたのですが、ひどいやけどで体の皮膚がぼろぼろになり大けがを負った状態でも、「わっしょい、わっしょい」と威勢よく、一生懸命に大声を上げながら歩いていました。
横川にある広島市信用組合が救護所となっており、たくさんの負傷者が集まっていました。私もそこで背中の傷を見てもらいました。「この傷はひどい。縫わなくてはならない」と言われましたが、その時はどうすることもできず、薬だけ付けてもらって、またすぐに川内村へ向かって出発しました。川内村へ行かなくてはならない、きっと両親が待っている、川内村へ行けばきっと両親に会えるから、と信じて、歩き続けました。
同僚の川地さんと一緒に逃げていましたが、彼女は打越町に家がありましたので、横川のあたりで別れました。
川内村に向かう道中で乾パンを配っている人がいましたので、分けてもらいました。その後また一人で歩き続け、安佐郡古市(現在の安佐南区)に住んでいる親戚の吉川さんの家へ寄りました。その家のおばさんはぼろぼろになっている私の着物を見て、古着で縫った上着を着せてくださり、じゃがいもを煮たものを食べさせてくれました。その家の息子さんが学校へ行ったきり帰ってこないと心配していました。人のことどころではないはずなのに、とても親切にしてくれました。本当にありがたかったです。
川内村へ着いた頃にはもうすっかり暗くなっていました。近所の知り合いはみんな川内村へ逃げてきていましたが、父、母、甥、姪はいませんでした。家族のことを知り合いに聞いても、知らない、来ていないと言われました。
豆腐屋の家で食事をいただきました。そこのおばあさんが「中学へ行っていた孫が帰ってこない」と大泣きしていたのを覚えています。その豆腐屋の近くに水が貯めてあるプールのような場所があり、そこで頭や体を洗いました。逃げてきたときに泊めてもらう家がそれぞれ決まっていましたので、決められていた家に一晩泊めてもらいました。
次の日、逃げて来た近所の人たちは様子を見に広島市内へ出かけて行きました。私も父と母を捜しに自宅へ行きたかったのですが、草履を履いていた右足にガラスが突き刺さっていて、痛くてどうしても歩くことができませんでした。
川内村に避難して数日後、安佐郡八木村(現在の安佐南区)へ疎開していた義理の兄が川内村へ迎えに来てくれました。その義理の兄は一番上の姉の夫でした。一番上の姉の一家は同じ空鞘町の近所に住んでいましたが、義理の兄は六日の早朝、借りていた八木村の納屋へ行っていて助かったそうです。義理の兄に連れられ八木村の納屋へ移り、数日そこで生活しました。八木村の納屋でお世話になっている間、義理の兄は家族の様子を見に空鞘町へ出かけて行き、帰ってくると「家族がみんな死んだ」と大泣きしていました。一三日ごろだったでしょうか、義理の兄が行方の分かっていなかった私と同い年の姪と、その弟の死体を見つけ、二人を大八車に乗せて連れて帰ってきました。その日は姪とその弟の死体、義理の兄、私の四人で並んで納屋で寝ました。
一番上の姉の一家は、義理の兄と出征していた息子二人以外の一〇人が亡くなりました。原爆の落ちた二日か三日前に生まれた子もいました。その子の名前は死んだ後で付けられました。
数日後、やっと足の痛みが和らいで歩けるようになりましたので、八木村から横川まで電車に乗り、横川から空鞘町の自宅へ向かいました。電車の中はひどいにおいで、ハエがたくさんいました。町は少し整理されていて歩ける道がありました。空鞘町の自宅へ着くと、先に来た義理の兄が整理したのか家の焼け跡はだいぶ整理されていました。座敷と台所のあった場所に、ほんの一握りだけ、白骨がありました。座敷の骨が父の遺骨で、台所の骨が母の遺骨であろうと思いました。遺骨をハンカチに包んで持ち帰りました。甥・祥司と姪・幹子の消息は分からないままです。
●被爆後の暮らし
その後は二番目の姉の世話になって生活をしました。二番目の姉の家は、横川で針工場をしていました。被爆前、姉一家は山県郡安野村(現在の安芸太田町)へある親戚の家に疎開していたのですが、八月六日に姉一家はたまたま横川へ戻っており、姉は己斐の駅で電車を待っている時に被爆しました。
被爆後、二番目の姉一家と私は、佐伯郡五日市町(現在の広島市佐伯区)にいる親戚の家へ一時的に避難しました。その親戚の家にもたくさんの家族がいるため、私たちがあまり長くお世話になるわけにもいかず、数日間だけその親戚の家で生活しました。
その後、再び安野村へ戻ることになり、私も一緒に安野村へ行きました。安野村で姉一家と生活をしている時、体中に赤い発疹のような斑点が出て、髪がたくさん抜けました。体に異変が起こっていても、姉一家は小さな子どもが何人もおり、私はその子たちの子守をしなくてはいけなかったため、寝ているわけにはいきませんでした。
一〇月か一一月に姉一家は横川にバラックを建て、そこへ私も一緒に移り住みました。針工場も再開し、私は家事や子守を手伝いながら生活しました。針の仕事をしていましたので姉の家には油がたくさんあり、その油と闇米を交換していました。私も闇米を買いに行かされたことがあります。
逓信局の仕事へ戻りたかったのですが、戻らないままでした。被爆の時に右手の中指の関節にガラスが突き刺さったせいで、今でもまっすぐ指を伸ばすことができません。背中の傷は結局縫わないまま治しました。何年たっても、背中がちくちくと痛むことがありました。その後、近所の人の紹介で昭和二三年五月に渡部倉一と結婚し、姉の家を出て渡部家で暮らしました。子どもが生まれ、今では孫が六人、ひ孫が九人います。もうすぐひ孫が一人増える予定です。
●平和について伝えたいこと
今は本当に幸せな時代だと思います。戦争中、甥や姪は本当にひもじかったと思います。当時と今では、天と地ほどの違いがあります。戦争だけは絶対にしてはいけません。核兵器は絶対にいけません。孫やひ孫たちが寿命を全うするまで生きることができるような、そんな世の中であって欲しいと願います。幸せな世の中になったことを感謝しています。
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