●被爆前の生活
当時、私は 十六歳でした。家は千田町二丁目にあり、祖母・和田ハル、母・足立良子、十三歳の妹・玲子、八歳の弟・成城の五人と暮らしていました。父の逸治は大阪城内の陸軍中部軍管区司令部に主計として勤めており、十一歳の弟・良成は千田国民学校から学童疎開で広島県山県郡大朝町(現在の北広島町)に行っていました。
昭和二十年三月、私は県立広島第一高等女学校を卒業しました。その後、広島女子専門学校(現在の県立広島大学)へ進学するのですが、この年はなぜか入学式が四月ではなく、七月に行われることになっていました。そのため、入学するまでは千田町の自宅から、疎開先の安佐郡狩小川村上深川(現在の安佐北区)へ荷物を運んだり、親戚に借りた畑でジャガイモを育てたりしていました。上深川には祖母の姉が住んでおり、そこに家を借りて疎開するという話は、一年前から計画していました。八月六日ごろに籍を移す予定でしたので、それまでは千田町と上深川の家を往復する毎日でした。また、この三か月間は家の手伝い以外にも、高等女学校時代からの動員先である陸軍被服支廠安佐郡川内村学校工場に従事していました。
●動員先の仕事
被服支廠では、女性従業員が縫った兵隊用の下着に、私たち女学生がボタンの縫い付けをしていました。また、南方の戦地でヒルから身を守るための蚊帳も縫いました。はじめは被服支廠に行っていたのですが、次第に学校が作業場となりました。教室内で穴かがりをする人、ボタンをつける人、検査をする人と分かれて作業をしていました。
学校で仕上げた下着や蚊帳は、高等師範学校の生徒たちが馬車で受け取りに来ます。当時は男の人とあまり話をしてはいけないと言われていたので、会話をしないよう、二階の作業部屋から荷物を落として渡していました。
そして七月、私は広島女子専門学校の被服科に入学しました。二年生は岡山県の三菱重工業(株)水島航空機械製作所に動員されていましたが、一年生は授業を受けることができました。しかし、授業を受けるといっても戦時中で教材は不足していましたので、どんな生地でも良いからとみんなで持ち寄った木綿の生地から夏用の帽子を縫いました。
●原爆投下当日
八月六日は八時から朝礼がありました。普段は校庭で行われるのですが、校長先生から話があるということで、私たち一年生は講堂に集まりました。翌日から東洋工業に動員されるため、そのことについてのお話でした。このお話のおかげで、私たちはやけどをせずに助かったのです。
八時十分ごろに朝礼が終わり、出席の点呼をとっているときでした。突然目の前でマグネシウムを炊いたようにピカッと光り、爆風で窓ガラスが割れました。私は講堂の中央にいたため、窓ガラスが刺さることもなく、けがはありませんでした。生徒のなかには天井から落ちてきたシャンデリアの下敷きになってけがをした人や、割れた窓ガラスが体に突き刺さった人もいました。その後、先生から学校の外に出ないよう指示がありましたが、何人かの生徒は、こっそり外に出て電車道まで様子を見に行っていました。髪の毛は逆立ち、全身にやけどを負って、男女の区別もつかないような人々が電車通りを歩く姿を見てきた友人の話を聞いたとき、信じられない驚きと、恐怖を感じました。
仁保町の丹那には、陸軍の小隊が駐屯していました。やけどをした人たちをそこに運ぶと、みんなが話しているのを聞きました。
みんなは戸板にけが人を乗せて運び始めましたが、私は乗せるための板が見つからず、右往左往していました。そのとき「足立さん、それどころじゃないよ。お父さんが来とってよ」と、声を掛けられました。
父がいるという校内の築山に向かうと、全身にひどいやけどを負った父が座っていました。
●父の被爆
父は、六日に疎開先へ荷物を運ぶ軍用トラックを手配していた関係で、前日大阪から帰ってきていました。そして当日、私は学校、妹の玲子は学徒動員で川内村(現在の安佐南区)、弟の成城も上深川の家で留守番していたので、千田町の家には、父と母と祖母がいました。疎開先に行くのに必要な汽車の切符を手に入れるため、父は一人で自転車に乗って広島駅へ向かいました。そして市役所の前を通ったとき、原爆がさく裂したのです。爆風で飛ばされた父は、けがの治療をしてもらおうと近くにあった赤十字病院に行きましたが、すでにたくさんのけが人が病院に押し寄せていたそうです。父は治療をあきらめ、電車通りを通って家に向かいました。その途中、家の近所に建っていた広島電鉄本社前で、母に贈った日傘が転がっているのを見つけ、母は亡くなったのだと思ったそうです。
そして歩くのがやっとの大けがと大やけどを負っていたにもかかわらず、私を捜しに学校まで来てくれました。妹も弟二人も田舎にいることを知っていたので、市内にいる私のことが心配だったのだと思います。
●学校での看病
被爆した人たちがどんどんやって来て、学校は自然と救護所になっていました。毛布もないので、みんな何も敷いていない廊下で寝ているような状況でした。作法室という畳の部屋を使用することができたので、父をそこで休ませてもらいました。父はこの日、陸軍のシャツと帽子をかぶり、腰には略刀帯を巻いていました。肌を出していたところは、やけどが酷かったので衛生兵さんにリバノールと赤チンを塗ってもらいました。また、父は軍人だったので、学校にいた軍医さんが特別に点滴をしてくれたことを覚えています。
学校には焼けただれてうめき声をあげているような被爆者がたくさんいて、軍医さんたちはそちらで手一杯だったのでしょうか、父の治療にまで手が回りませんでした。
三日目ぐらいから、父の体は真っ黒になり、アスファルトのように固くなってきました。私は家族に父のことを伝えるため、朝早くに学校を出ました。広島駅から芸備線は通っていないと聞いたので、上深川に歩いて向かいました。いくつも峠を越えて上深川に到着して、留守番していた成城に父のことを伝えました。そしてその夜、動員先から戻ってきた玲子と一緒に父のところへ向かいました。
父の体にはハエが卵を産みつけ、うじ虫が湧きはじめました。私は空き缶を見つけて割り箸を折って、二膳の小さな割り箸を作りました。その割り箸を使って、妹と一緒に口や鼻の周りのうじ虫を一生懸命取りました。
父の看病をしているとき、動員先の水島機械製作所から上級生が帰ってきました。私は覚えていないのですが、上級生たちは校庭でおむすびをつくり、学校にいる人たちに配っていたそうです。しかし、父はやけどで口が開かなかったので、食べることができませんでした。お茶やお水、重湯ぐらいしか口に入れていなかったと思います。
数日後、行方不明だった母が成城とともに学校へ来ました。母は、祖母と千田町の家でトラックを待っていたときに被爆し、首や足にやけどを負いました。二人はその後、私のお茶の先生が住んでいた仁保町の渕崎に避難しました。母は避難の途中、広島女子専門学校が燃えていないのが見えて、私は無事だと思いまっすぐに渕崎に向かったそうです。先生のお家で二泊した後、上深川の自宅に帰り、成城から父の全身やけどのことを聞いたのでした。母は私の学校に来てからずっと、父の側にいました。
●父との別れ
作法室には父の他に学校関係の被爆者と、その家族が収容されていました。他の方は大きい声で叫んでいましたが、父は叫ぶ元気もなく、うわごとのように「お花畑がある」と言ったり、家族の名前を呼んだりしていました。
八月十四日、うわごとが聞こえなくなり、静かになったと思っていると、私たち家族に看取られながら父は亡くなりました。「おかあさん」が最期の言葉でした。目の前のやけどで黒くなった父に何もしてあげられない辛さは、今も私の心の中と全身に残っています。学校の横にハス畑があり、兵隊さんが材木を組んで亡くなった人たちを焼いていましたので、父もそこで荼毘に伏しました。陸軍軍人だった父は、昭和六年の満州事変、昭和十二年の日中戦争、そして昭和十六年の真珠湾攻撃と、ずっと戦地に居りました。戦地では銃弾を一つも受けなかったのに、広島に帰ってきて原爆で亡くなってしまい、とても残念です。
その後、大朝町に疎開している弟の良成を私が迎えに行くことになりました。良成には一度も父のことを伝えていませんでした。
父の死に目に会えなかったことを怒ると思ったので、私は本当のことを言わず、まだ父が生きていることにして良成を連れて帰りました。学校に着いてから、良成は父の最期に会えなかったことを悲しみ、怒り、泣いていました。
●終戦後の生活
八月十五日、ラジオで大事な放送があるからと、教員室へ聞きに行きました。終戦を知らせる放送だったようですが、雑音が多くてまともに聞くことができませんでした。前日に父を亡くしたばかりで大変でしたので、戦争が終わったことに対して特に何も感じませんでした。
原爆によって千田町の家は焼けてしまいましたので、終戦後は上深川の家で暮らし始めました。上深川に親戚がいたからできたことだと思いますが、母は持っていた着物を、村の人に米や野菜と交換してもらい、私たちに食べさせてくれました。野菜はほとんどがジャガイモとナスで、毎日ジャガイモをふかしてご飯代わりに、ナスは煮て食べました。家でも野菜を作りましたが、ジャガイモくらいしかうまくできず、他の野菜は作っても近所の人に笑われてばかりでした。父が生前、糧秣支廠から大きな袋一袋分のいりこを貰っており、私たちは野菜以外にこのいりこを食べて生活していました。このいりこのお陰で十分な栄養を取ることができたのだと思います。上深川で暮らした一年間、私たち家族を守ってくれました。
また、上深川での生活を始めてから父が生命保険に入っていたことを知りました。三次市の日本生命で手続きをしてもらうと、当時のお金で千五百円もありました。私が赤ちゃんのときから少しずつ貯金してくれていたのです。
父が残してくれた保険金と食糧、母が着物を売って得たお金で、私たち子どもは生活することができました。両親にはとても感謝しています。
学校は秋から再開しました。再開するまでの間、原爆の被害を受けた校舎は施錠をすることができなかったので、学校のミシンは下の踏み台を残して全て盗まれていました。そのため授業では、エプロンや帽子を手縫いで作りました。裁縫の宿題を出されることもありました。上深川は夜になると電気が来なかったので、宿題をする時は小皿に油と木綿のきれを灯芯として入れ、火をつけて明かりにしていました。学校は、卒業するまで通うことができました。母と妹の玲子、弟の良成と成城のおかげです。
その頃、約二千円でバラックを建てるという売り出しをしていたのを祖母が購入し、千田町の家があった場所に建ててもらっていました。そのバラックは一日で完成するような造りでした。卒業後はそこに住みながら、被服支廠だった施設で経営していた、服の生地を売る会社に約一年勤めました。
●結婚後の生活
二十一歳のときに結婚し、南段原町(現在の段原南一丁目)の夫の実家で暮らし始めました。夫は、神宮外苑で行われた学徒出陣壮行会で雨の中を行進した大学生のうちの一人でした。仙台の航空隊に所属し、中国の大連市にいましたが、終戦後は捕虜になる前に脱走して、満州(中国東北部)の人に匿ってもらい生き延びたそうです。
結婚後は夫の実家の広間を会議場として貸していました。その広間は原爆投下後、陸軍の救護所になっていたため、お客さんから「大やけどして、お宅の広間で世話になったんよ」というお話を聞くこともありました。広間を貸していくうちに料理でも始めてみようという話になり、昭和二十五年五月一日に『ささき別荘』という料亭を開きました。
料亭の代表は夫ということになっていましたが、夫は明治大学在学時、空手道部に所属しており、空手が好きな人だったので、戦後は広島大学の生徒に空手を教えていました。ずっと空手ばかりしていたので、お店のことはほとんど私に任せきりでした。平成十六年に店をたたむまでの約五十年間、女将として勤め上げました。
出産のとき、被爆の影響などを不安に感じていましたが、周りの人たちは何も言いませんでした。女の子は早産で亡くなりましたが、男の子は無事に産まれ、今では孫が二人、ひ孫も女の子が二人います。
夫が亡くなってからはマンションに一人で暮らしています。毎朝主人の両親と、原爆で亡くなった主人の姉二人、そして軍服姿の父の写真に手を合わせています。息子も同じマンションに住んでおり、朝になると様子を見に来てくれます。様子を見に来て、コーヒーを飲んで、そして仏壇に手を合わせて帰っていくのが日課となっています。
●平和への思い
今は戦争もなくて幸せだと感じますが、ニュースを聞いているといつ戦争が起きるのか分からない世の中です。昔と違って技術も進歩していますので、原爆を落とされたら防空壕ではどうにもならないと思いますし、今の日本はすぐにでもミサイルが飛んで来る心配があります。本当に戦争が起きてしまえば、孫たちはきっと召集されてしまうのではないでしょうか。そうなったら私は耐えられません。日本が戦争に引き込まれることのないよう、外交も軍事も、私たちが命がけで守った日本を正しい道に進むように、しっかり守ってほしいと思っています。
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