八月五日午後八時を過ぎる頃、敵機が大編隊で広島方面を空襲するとの警報が出て、全市は燈火管制に入った。数分後にして敵機は広島の上空に姿を現したがそのまま西方に向かって、何の被害もなくただ恐怖のうちに一夜を明かした。当夜われわれ親子三人は防空姿で不眠のまま六日の朝を迎えた。この日長女(当時二年在学)は早くから勤労作業場所に行く仕度をしながら母親とこんな話をしていた。
「今日の作業は午前中だから、早く帰って友達と一緒に学校に行く約束したのよ」
「今日はお兄さんも動員先から帰ってきますよ。暑いようだから氷を買って待っていますから、お友達と一緒にお帰りなさい。気をつけてね」
こんな話をして嬉しそうに家を出て行ったのを床の中でうとうとと聞いていた。長女は入学間もなく学校の裁縫室で針が足に刺さり、続いて風邪で軽い肋膜を併発して長い病院生活をした。二十年の一月頃から漸く医師から通学を許されたが、勤労奉仕には余り従事出来なかった。六日の疎開作業には校長先生からの訓辞もあり、本人の要望によりお友達の弁当の番をする程度ででかけた。午前七時半頃空襲警報に入ったが間もなく解除となった。一息した午前八時過ぎ、轟然一発閃光一瞬にして家屋は倒壊の惨状。おそらくは爆弾投下と叫んだ。間もなく遠く近く騒音が聞こえて来た。屋外に出て見ると見渡す限り地上の物は悉く吹き飛んで一物もなく、さながら曠野に等しい有様であった。われわれは再襲を恐れて一先ず江波山に避難することにした。行き交う人々の顔や足は火傷し、又は血まみれとなり、身体には一糸纏わずただただ恐怖と戦慄に右往左往するばかりで、子供は泣き泣き親を呼び、要は夫を探して相互に肉親の名を呼び続けて悲惨極まりなく、中には衣類が裂けているのかと見れば皮膚が裂けてつづれ垂れ下がり無惨な様相であった。太陽の照り注ぐ中をわれわれは黙々と急ぎ足で避難の列に加わった。途中五、六歳の女の子が皮膚を裂かれて、母を探し求めながらついてくるいたましさに妻は服を着せ与えたが、いつか人波に消え去った。漸くして江波陸軍射的場に来た。空は黒雲に覆われ雨は降り出し、傷ついた人々は諸所方々から集まり来て全市の被害を受けたことが正午頃にして解った。爆弾でなくて殺人光線だという程度のことが口伝えとなってひろまった。その後、敵一機が偵察に来たのみで不安のうちに半日は過ぎた。避難者は続々と増して斃れてそのまま死ぬる人あり、血まみれとなって水を求める等この世の生地獄かと思われた。幸い自分は非常用の救急薬を持ち合わせていたので皆に与えたが一向に効果なく、ただ吐気の症状を呈して苦しむばかりであった。これが今日の原爆症と記憶される。午後二時頃になって漸く気も落ち着いて来たので、一先ず長男(当時広島高等学校在学)、長女の動静も気がかりなので先ず市女に尋ねに行ったところ、女先生ばかり残っておられて今のところ現地との連絡もつかず、十分に判明し難いから今暫く待ってくれとのことであった。学校も北側校舎は倒壊して瓦も柱も折り重なって想像以上の被害を蒙っていた。五時頃再び学校を尋ねたが現地から連絡もなく、男子の先生が多数引率しておられるので心配はないとは思っているがこちらからも行ってみるとの話し合いの折も折、あわただしく大声で父兄の一人が「市女の生徒は全滅だ。早く行って何とか救い出さないと可哀想だ」この一声を聞いて一瞬不吉の予感に打たれながら自分は又大声で「さあ現場へ行こう。あの方面は委しく知ったところですから道案内します。父兄はついて来て下さい」と言って裏門から走り出て、電車道を北上して舟入本町交叉点から住吉橋を渡り、火焔燃え盛る中を吾を忘れてまっしぐらに万代橋西詰に来た。この周辺は第六次疎開でほとんど家屋は取り壊されて後始末に動員された一般人も多数作業していたらしく、死体は累々と折り重なっておった。「さあ皆さん、この辺りから手分けして吾が子の名を呼びつつ上りましょう」。河岸沿いに「城子ちゃん……」と吾が子の名を連呼して探した。火焔の中に斃れ息も絶え絶えに両親の名を呼んで救いを求める女生徒もあった。又和服に袴をはいた女の先生の傍に同じく他の学校の父兄らしい人が「この辺りの生徒は安田高女の生徒です」と言って立ち去られた。川の中岸辺には生徒が三々五々折り重なって、肌着は破れ髪は乱れて裸となってほとんど絶命の状態で誰とも見分けがつかない。時に午後六時半頃。夕闇はいよいよ迫り冷気は加わり気はいらだつばかり。名を呼び続けて行くうちかすかな声で「ここよ」と叫ぶ吾が子の声と「築山さんはお父さんが来られていいね」とどこからともなく聞こえた友達の叫びが今なお耳底深く残って、誰であったか判然としなかったことが今更ながら残念である。
多分仲のよかった友達同志は一緒になってこの川岸まで逃れて来て遂に斃れたのでしょう。城子は川の石に腰掛けていた。朝からこの時刻までどんな気持でわれわれの来るのを待っていたか、よく苦しみをおさえこらえて生きていてくれた。多分他の皆さんも同じ思いであったでしょう。苦しい中からも父母兄弟に救いを求めつつ、これが戦争だ、天皇陛下万歳と絶叫して散った少女の尊い犠牲は永久に忘れられぬ。直ちに川に飛び込んで行き、「城子ちゃんなの」と、たずねる程顔は腫れ目は糸筋の如く頭髪は焼けちぢれ口唇は脹れて見る影も無い容貌に思わず城子ちゃんかと念をおせばかすかにうなずく。モンペに名前を書いた白布がついている。父母に会えた安心か「もう死ぬるよ」と言ってぐったりとなるのを励ましながら身体を抱き上げるとモンペは膝から下はなく、火傷して皮膚がずるっと下がっていた。余り痛みを訴えるのでそっと岸まで運んだとき、一夫人が「お嬢ちゃんが見つかったのですね。私の子供はどうしても見つからないのですよ。一人でも助かって下さい。よろしかったら私の帯で背負って一刻も早くお帰りになっては」と親切に言葉をかけて下さったので帯を戴き辛うじて場所を去ることが出来た。お名前は千田の蔵内さんとおっしゃった。現場を去るに際し声高らかに「帰って先生やお父さんやお母さんに早く救いに来て貰うから暫く元気を出して待っているのですよ」と言い残して、火のようにあつい土地を転ばないよう注意しながら住吉橋まで辿り着きました。ここにも多数の負傷者が一箇所に収容されて病院に運ばれる手配中であったので、傷の軽い女の人に城子を頼んで学校に現地の救出方を知らせに帰った。
又自分が妻と共に蚊帳と水をさげて子供の所に引き返した時は、午後九時頃。冷気は一層加わり川風は身にしみて、負傷者は呻き苦しむばかりでなかなか病院に運んでくれる様子もない。こんな状態ではみんな死んでしまうと思ったので、たまたま救援に来た十七、八歳の年若い特攻隊に頼み、陸軍江波分院に収容するよう手配を依頼し、道中は自分が案内することにし、病人を運ぶ車や戸板で仮の担架を作って貰った。途中至るところに焼けくすぼった電柱、家屋の中を通って病院に向かった。時に零時頃。
途中板の担架に蚊帳を敷いて寝ていながら無意識に「畳の上に寝たいよ」「横にしてねえ」「水がのみたい」とか、「坐らして」等言いつづけて苦しむのを見て特攻隊の方々に「この仇はきっときっと僕等が取って上げますよ、しつかりして下さい」と励まされ、一緒にただ泣くばかりでした。江波分院は既に満員で収容の室もないので、急に江波小学校教室が充てられる事になった。
負傷者は校庭に運び置いて、爆風で木っ端微塵に散乱した硝子等を真っ暗闇の中で整理して収容した。幸いにして城子は、医師の診察を受けて注射をして貰ったが、身体が大変に冷たいので直ぐ全身摩擦をするように注意を受け、二人で一生懸命に体温が移るよう腕の中に抱きこんで介抱したが、再び診察の結果死亡の旨言い渡された。時午前一時。
死体を校舎の一部に移し夜の明けるのを待った。周囲の負傷者は苦しさに泣き叫び、近くにいた七、八歳位の男の子は死の直前「お母さんはどこね、お母さん」と大声で呼び何か見ようとして両手を振り廻して、何も無いのに「蚊帳をのけて、早うのけて」と言いながら一人で息を引き取った。私達も一緒に気がくるいそうになる。
又隣りの方でしきりに「英子ちゃん、英子ちゃん」と体をゆり動かして名を呼び叫んでおられたおばあさんとお母さんがあったが、同校の一年生田村英子さんで同時刻になくなられた。後に偶然にも古田町古江の知人だと分りました。
私達はそれぞれ死体のそばで悲しみと不安のうちに一夜を明かした。前日から食事を摂っていないので空腹を感じていたが、昼頃たき出しがあって大きな握り飯が二つあて配給された。この日も朝から上天気で暑さは一層きびしかった。
死体は一応校庭に運び、誰彼となく一緒に火葬にするようにと私達にもその知らせがあった。とっさの処置とは言え、後で骨が判り難い心配が胸一杯で、出来れば両親の手で火葬にしたいとあれこれ悩んでいたら、幸いにも田村さんの好意により英子さんと一緒に迎えの車で一先ず家に運んでもらうことになった。私達は再び江波避難所に引き返し僅かながら手荷物を纏めて、一緒にいた方々とお別れをして徒歩で観音新開から庚午町に渡り田村家を訪れた。時に三時頃。既に同家においては近隣の方々が集って英子さんと吾が子のために読経を済ませて私達の着くのを待っておられた。
城子は椅麗な布団に寝かせて貰っていた。死んだとは言えこれで身体も楽になったのではないかと思われた。皆さんによって山の焼場に運んでもらったが、古江も多くの死者が出ているので一人ずつ土地を細長く掘って下に薪を積み重ね死体をのせて上から水に浸した藁を覆って皆さんと一緒に静かに火入れをした。白煙山を縫って天を覆い、ただただ吾が子の安らかな永眠を祈り続けた。
歳月流れて早十三星霜、今年は第十三回忌を迎えるに当たり、当時の見聞を記録して皆様と共に回顧することにいたしました。
出典 『流燈 広島市女原爆追憶の記』(広島市高等女学校 広島市立舟入高等学校同窓会 平成六年・一九九四年 再製作版)二〇~二三ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和三十二年(一九五七年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】
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