芙美子さんよ、あなたはすなおでしたね。お父さんの言うことをよく理解して、国のために、戦争に勝つためにと、あの恐ろしい爆弾に見舞われてもよく生徒の本分を守って、毎日モンペを着て通学した姿が今なお眼前に浮かびます。あなたは東京で入学したばかりの女学校が爆撃されて八王子の女学校へ転校したけれど、益々爆撃は頻繁になるので、お父さんが実は広島へ再度転校させたのでしたね。そしてあの原爆に見舞われたので言わば私がわざわざあなたを死地に送ったのでしたね。許して下さい。
私は終戦後広島に帰り、宮川校長先生から当時の模様を聞いてあなたの最後を想像し、胸が迫り急きくる涙をどうすることも出来ませんでした。苦しかっただろう………恐ろしかっただろう………軍人だったお父さんが生き長らえてあなたを先立たせ、全く私は懺愧にたえませんよ。然しあなたの犠牲によって漸く平和が甦り、国も滅亡から救われ、お兄さんも弟も妹もそれぞれ平和のうちに立派に成長し、今日では毎日朝に夕に仏前にてあなたに感謝報恩の誠心を捧げています。
あなたの最後の地だった附近も今は平和公園となり、お父さんは毎日そこを通って勤めに行っています。それは行方不明のままの芙美子さんが「お父ちゃあん」と言って走って来るかもしれないような気がするからです。
出典 『流燈 広島市女原爆追憶の記』(広島市高等女学校 広島市立舟入高等学校同窓会 平成六年・一九九四年 再製作版)三三~三四ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和三十二年(一九五七年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】 |