八月八日、私は長男勝興(一歳六ケ月)をおぶって、主人と五日市から電車で己斐駅に着いた。三日前見た駅、なんと変わった事だ。浦島太郎のような感じ、電車道を通って天満町の我が家の焼跡に立って呆然。八十二歳の母は俯伏したまま焼死。頭と腰が半焼、唯一人留守番だったので、「大変相済みません」と涙ながらに合掌。そこで弁当を二つに分けて、主人は勤務先の工場へ、私は市女一年・長女多満惠を探すため、天満橋を渡って土橋まで出た。道すがらどこを通っても死体と瓦や煉瓦ばかり。視野の続く限り、処々まだ燻ぼっている処もある。死並ぶ顔ばかり見ながら新大橋に出た。死人はほとんど若人ばかり。なんという悲しい事だろうと思いながら歩いていると、後方からこられた五十歳位の背の高い男の方と道連れになった。「死んでいるのは皆、若い者ばかりじゃありませんか。小さい子供、年寄りは疎開しているが、長期戦で後へ続く者は、皆死んでしまった。どうなるんでしょう。私はこの前、役所でこんな事にならないようにと論争したんですよ。建物疎開など止めて田舎のお寺、学校へ町の人々全部疎開させて、空家へ敵に思い切り爆弾を落とさすようにネ」と話された。「人間一人なかなか大きくなりませんからネ」とも。橋の上も川にも死体ばかり。新大橋を渡った処でお別れし、私は県庁跡の方へ足を運ぶ。川、土手は中学生ばかり、足の踏み込む場もないほど死人の山。残念だと思いながら、なお歩いていると、胸に「井上」とある名札のある方とお会いした。私の名札をご覧になり、「ああ、貴女は天満本町の武内さんですネ。私は昨日、お宅の娘さんでしょう、どの辺でしたか、確かに見ましたよ。私、天満本町の出身だものですから」とおっしゃって、「家内が怪我をしたので昨日は私一人で探しました。私の子供もやっばり市女ですよ。今日、一緒に来ましたが、まだ見つかりませんよ。とにかく、あの辺へ行ってごらんなさい」と指差し教えて下さった。奥様は、顔を繃帯で包み、お顔の色も大変お悪い。私は教えられた県庁前東側の方に急いで行き、一生懸命探した。あちら、こちらにと、どの大水槽にも女生徒が二十人くらい、水脹れして目を開け、生けるが如く立っている。なかなか多満惠は判らない。井上様のお言葉を頼りに入念に探していると、同級生の沖本令子さんを見付けた。「まあ沖本さん。可哀想に」と言い、暫く合掌黙礼。これに力を得て、また探していると、そこから二十メートルくらい離れた、川へ下りの斜面の処に、我が児、多満惠はいた。
「まあ、多満惠さん、ここにいたの、悔しかったでしょうネ。でも先生と一緒だったの。お母さんもお父さんも最後まで頑張って、次から次と多満惠さんの処へ行くからね。待っていて」と声を上げ、泣きながら合掌黙禱していた。暫くして目を開いて見ると、手に手に鎌竿を持った男の方が五、六人拝んでいて下さった。多満惠は一寸歯を喰いしばって、若い男の先生の左腕の下へ顔を埋めるようにして、生徒五人と共に頭を並べ、足の指だけ火傷、服もズボンも先が二十センチメートルくらい焼けていただけ。思えば虫が知らせたとでもいうか、多満惠達は前の一週間、学校から帰宅したら、毎日、五、六人同級生や二年の方が私方へ集って、宿題や自習を互いに教えたり、数えられたり、後はフットボールなど持ち出して、天満校校庭に行ったり、天満宮境内で遊んだり、話し、笑い、興じ、日暮れまで遊んでいた。私が不思議に思って、「皆さんは、なぜ毎日来られ夕方おそくまで遊ばれるの?」と開くと、「お母さん、私達は来週から、また建物疎開の跡片づけに行くのよ。この間聞きましたが、油脂焼夷弾ですと、身体の三分の一以上火傷すると、助からんのじゃそうです。それで、今の間に面白く愉快に遊ぼうという事になってね。死ぬ時はみな一緒に、天皇陛下万歳と言ってね、靖国神社に祀られるんですよ」「ああ、お腹が空いた!」と言って、おじやを食べはじめる。この言葉に主人も私も何にも言えず。でもあまりにも早く実現しようとは! 私は八月五日、勝興と三女・真智子(五歳)を連れて佐伯郡石内村の親戚に用事のため行き、田の草取りや畑の草取りなど、二、三日手伝って下さいと頼まれて、この難を免れた。丁度、原子爆弾の落とされた時は、除草機で一生懸命、田の草取りをしていた。前夜の夢見が非常に悪かったので、警戒警報解除であったが、金属性の飛行機の爆音を聞くと、B29だと思って上空ばかりみつめていたが、ほんの一寸、機体が見えると思った瞬間、プンという音と共に、青と赤の虹のような輪の真ん中へ、真っ白い小さい物が落ちたと同時に、大きな雷の十倍もあるような、「カン」という音がした。と、下から真っ白い煙、続いて黄土色、続いて真っ黒、後は大火事になった。私ははじめから見ていたので、ただ一つ落ちたのに全市焼け崩れとは、と当分不思議でならなかった。
主人は、観音町のある工場でほんの三分間くらいの差で命を拾い、頭に五センチメートルくらいの裂傷、腰から下は打撲傷で、翌七日は足が立たず相当大怪我であったが、今のところ、原爆病状も無く、一家六人元気で平和な日々を送っている。毎年八月六日には、市女の犠牲者の方々の御霊と共に鎮まります持明院に、必ず、私が弟妹達を連れてお詣りをする。せめてもの手向けと思って、時たま見る多満惠の夢はいつも学友の方々と歌ったり、踊ったりの楽しそうな場面ばかり。私を悲しませぬためかのように―。でも原爆の惨状は、一生私の瞼の裏から消えることはないでしょう。
出典 『流燈 広島市女原爆追憶の記』(広島市高等女学校 広島市立舟入高等学校同窓会 平成六年・一九九四年 再製作版)五二~五四ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和三十二年(一九五七年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】 |