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学徒動員から終戦まで 
宮川 造六(みやがわ ぞうろく) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島市松原町 
被爆時職業 教師 
被爆時所属 広島市立第一高等女学校 校長 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
大東亜戦争の戦局いよいよ我国にとって不利となって来た昭和十八年頃より、銃後生活は全面的に改革され国を挙げて戦力増強一億総進軍の旗印の下、男子はことごとく第一線あるいは重工業の工場に徴用され学徒も又あるいは特攻隊として戦線に進み、残れるものは学徒動員により学業を放擲して軍需生産に強制従事せしめられ、さらに男子のみでは軍需生産に十全を期し得られないので女子勤労挺身隊を結成せしめ緑の黒髪を白鉢巻で縛り、泥にまみれ油に汚れて旋盤ととっ組み一昼夜四交替で炎熱焼くがごとき夏の真昼間も寒冷膚をつん裂く冬の真夜中も一分のいとまもなく戦いつづけたものであった。さらに全国各都市がことごとく焼夷弾の攻撃を受けるようになるや都市をその焼失より防がんとして疎開並びに都市の中央部に大きな空地を設定するため家屋の除去取払いを行いこれが勤労作業は隣組の義勇隊(これは主として出征遺家族の妻あるいは娘等の婦女子あるいは老年の男子であった)、並びに中等学校の低学年高等小学校の生徒であったいたいけない十二、十三歳の男女学徒が飢えた身体に鞭うって重労働に献身の努力をいたしたのであった。

この学徒動員の法的措置を法令発布の経過から尋ねて見れば昭和十九年四月二十七日、学徒勤労動員実施要領に関する件が文部、厚生、軍需次官通牒により発せられこれに基づいて広島県は広島県学徒勤労動員実施要領を制定し、決戦非常措置に基づく学徒動員実施要領により学徒尽忠の至誠と勤労即教育の本義に徹する学徒勤労動員の積極果敢にして且つ有効適切なる運営を図り、学徒たるの矜持を堅持し戦力増強に充分なる効率発揮を期すと宣せられ、校長以下全職員は率先垂範陣頭指揮に当り、学徒の勤労協力並びに訓育の徹底に万全を期するよう指令された。そして広島県庁内には動員本部が置かれ本部長は内政部長がこれに当った。

昭和十九年五月三十日、市女高学年の生徒は勤労動員に勇躍出動した。

専攻科生は平田教諭に率いられ呉工廠広工場に出動、四年生は一部は森教諭に引率されて西観音町の大東亜食料工場に、大部分は沓木教諭に引率されて日本製鋼所へ出動した。また一部は舟入川口町の関西工作所に小国教諭に引率されて出動した。さらに一部は西部被服に高山教諭に率いられて出動した。

教師は戦闘帽、国民服に身をかため女子はモンペ姿になって朝会には必ず大東亜戦争宣戦の詔勅を奉読して戦意を振い起こして増産に血みどろの努力を傾けた。

昭和十九年五月三日、教育に関する戦時非常措置方策に基づく中等学校教育内容に関する臨時措置要領は発布され、学徒の勤労動員を強化し一年につきおおむね三分の一相当期間を動員し得ることとし、なお第一学年及び第二学年はなるべく六十日程度を限度として食糧増産その他適当なる勤労作業を行うものとした。

しかるに七月十九日には学徒勤労の徹底強化に関する件が文部、厚生、軍需次官より通牒があり、「工場事業場等学徒勤労動員学校側並に受入側措置要項に関してはさきに指示相成りたる所七月十一日閣議に於て航空機緊急増産に関する非常措置の件決定の次第もこれあり今般学徒の徹底動員を図るため教育訓練時間等に関し当分の間左記により措置相成度くこの段通牒に及び候」とあって、労務需給の情況に鑑み必要ある時は国民学校高等科児童をも継続動員し得ること。

国民学校高等科児童をもってしてもなお給源不足する場合においては中等学校低学年をも動員し得ること。

残業及び交替制による深夜就業は、緊要なる産業に関しては中等学校三学年程度以上の男子及び女子学徒にこれを課し得ることとした。

かくて第四学年につづいて第三学年生徒も出動することとなり八月中旬をもって職場に出動と決定した。しかし従来四年生の職場における勤労には色々問題の点も多く、特に男子の学徒あるいは工員と入り混っての勤労には種々いまわしい事件も起こるのを見て学徒の勤労と学業とを一致せしめる方法は学校を工場とすることが最も良策であると考え、又一面にはすでに他の学校で校舎が軍用等に転用されるものも多く、かくては多年の伝統を誇る校舎が他に転用される事は在学生の堪え難い寂蓼であり、行学一体を実現するには例え学問はなさざるも学校で勤労に従事することが大切である。ここにおいて学校工場化が最も大切であると考え被服廠に赴き学校工場化の希望を述べミシンの供出を申し出た。被服廠としてはミシンに大変困っていた時ゆえ学校がミシンを供出すると聞いて大いに喜びすでに県女に決定しかけていたものを改めて市女を工場化することに決定した。

かくて八月一日、盛大なる入廠式は行われ三百有余名の学徒は軍属として任命され八月二日、三日と講習は行われ三日午後被服支廠長紺田修一氏によって視閲は行われ四日より作業を開始した。生徒は張り切って軍用被服の製作に従事した。

しかして昭和十九年八月二十二日に至り、いわゆる学徒勤労令は発布された。これについて八月二十五日文部、厚生、軍需次官よりの通牒を見れば、緊迫せる戦局の推移に対処し決戦完遂上学徒の勤労動員を徹底強化し軍需生産を最高度に増強するの必要により今般新たに法制的措置として学徒勤労令制定せらるる事と相成り八月二十三日勅令第五一八号を以て公布せられ、これに伴い文部、厚生、軍需省令を以て同令施行規則同日施行相成たる所、右は学徒勤労の特殊性並びにその重要性に基づき特に学徒勤労一般国民勤労報国協力令による協力と切離し、一層学徒勤労体制の徹底強化を図りその円滑なる実施を期せんとする趣旨にこれあり云々
とあり学徒の勤労動員を法令によることとしたのである。

しかして戦局いよいよ我国に不利となった昭和二十年三月十八日、閣議決定としていわゆる決戦教育措置要綱が発布された。これは次のようなものである。

第一方針 現下緊迫せる事態に即応するため学徒をして国民防衛の一翼たらしむると共に真摯生産の中核たらしむるため左の措置を講ずるものとす。

第二措置
一、全学徒を食糧増産、軍需生産、防空、防衛重要研究その他直接決戦に緊要なる業務に総動員す。

二、右目的達成のため国民学校初等科を除き学校に於ける授業は昭和二十年四月一日より昭和二十一年三月三十一日に至る期間原則としてこれを停止する。

国民学校初等科にして特定の地域のあるものに対しては昭和二十年三月十六日閣議決定学童疎開強化要綱の趣旨により措置す。

三、学徒の動員は教職員及び学徒を打って一丸とする学徒隊の組織を以てこれに当てる。編成については所要の措置を講ず。但し戦時重要研究に従事するものは研究に専念せしむ。

四、本要項実施の為速に戦時教育令(仮称)を制定するものとす。

かくて昭和二十年三月末に至り当時広島地区にある軍需生産工場の総監督の位置にあった堀江大佐は現在戦局では軍用被服の生産よりも弾丸の生産が第一である。学校工場の生徒は軍服の生産をやめて軍需生産工場へ出勤すべしと命令され、遂に三月末学校工場を閉鎖し解散の式を行い市女第三学年及び第四学年の大部分は全部日本製鋼所に出動、西蟹屋町の広島工場は市女生徒のみで運営、昼夜四交替でひたすらに弾丸の生産に血みどろの努力を傾けた。旋盤の操作作業の指導に来ている専門の男工員も疲れて眠りころげている真夜中に青白い顔に闘魂をみなぎらせ目をギラギラ輝かせてひたすらに励む生徒の姿はいじらしくも神々しいまでに乙女心の純情を祖国防衛の熱情に燃やしていた。

昭和二十年五月二十一日戦時教育令が公布され、即日施行された。それは次の通りである。

皇祖孝曩に国体の精華に基きて教育の大本を明にし一旦緩急の際義勇奉公の節を効さんことを諭し給へり。今や戦局の危急に臨み朕は忠誠純真なる青少年学徒の奮起を嘉し愈々其の使命を達成せしめんが為枢密顧問の諮詢を経て戦時教育令を裁可し玆に之を公布せしむ。

御 名 御 璽
昭和二十年五月二十一日

戦時教育令
第一条 学徒は尽忠以て国運を双肩に担ひ戦時に緊密なる要務に挺身し平素鍛練せる教育の成果を遺憾なく発揮すると共に智能の錬磨に力むるを以て本分とすべし

第二条 教職員は率先垂範学徒と共に戦時に緊切なる要務に挺身し倶学倶進を以て学徒の薫化啓導の任を全うすべし

第三条 食糧増産、軍需生産、防空防衛重要研究等戦時に緊切なる要務に挺身せしむると共に戦時緊要なる教育訓練を行ふため学校毎に教職員及び学徒を以て学徒隊を組織し地域毎に学徒隊を以てその聯合体を組織するものとし二以上の学徒隊の一部又は全部が同一の職場に於て挺身するときは文部大臣の定むる場合を除くの外其の職場毎に教職員及び学徒を以て学徒隊を組織し又は学徒隊を以て其の聯合体を組織するものとす。学徒隊及び其の聯合体の組織編制教育訓練指導監督其の他学徒隊及び其の聯合体に関し必要なる事項は文部大臣これを定む

かくて戦時教育令の公布にあたり時の文部大臣太田耕造氏は省令を以て、
大東亜戦争勃発以来玆に三年有半、我が将兵の力戦敢闘は克く皇国神武の伝統を中外に発揚したりと雖も巨大なる物量を以てする敵の反噬漸く増大し来れるに加へて欧州における情勢急転し独逸の俄かに潰滅するあり独り大東亜に毅然たる我国に対し敵全攻撃力の集中するや必至の情勢となれり、既に危急なる戦局は更に深刻緊迫の度を加へ皇国の存立東亜の保全双ながら危殆に頻し世界の道義又地に墜ちんとす。
此の重大なるときに当り戦時教育を御制定あらせられ戦時に於ける教育の目標並に教職員及び学徒の使命を明示し給ふ畏き大御心を拝し教職員及び学徒は固より苟も文教に携はる者にして恐懼感激一死以て大任を遂行し狂瀾を既倒に回さんことを誓はざる者あらんや須らく本令に則り速やかに学徒隊を編成し若き学徒の総力を玆に結集して国難突破に一路邁進せざるべからず惟ふに学徒隊運営の主眼とする所、其の一は教職員及び学徒の忠誠護国の至念なり、此の念にして熾烈ならんか積極敢為の風、自ら漲り旺盛なる責任感又湧然として興起すべし、其の二は上下僚友熱鉄の如き団結心なり此の心にして強固ならんか捨私奉公の修練自ら成り団結の威力は生産に防衛に余す所なく発揮せらるるに至るべし。其の三は、共励切磋して求道研鑽息まざる志なり。行学一致作業に於て人の範となり智能の練磨に於て学徒の真髄を発揮するは固より容易の業に非ず宜しく御弟心を一にし寸陰を惜みて努力奮励倦まざるべし。
抑々我国学制頒布以来玆に七十有余年今や戦局の危急に際し教育史上未曾有の転換を敵前に断行せんとす。此の事若し成らずんば教育の精華遂に空しく泥土に委するに至らん任を教職に受くる者思を玆に致して薫化啓導の職責を全うすべし。
皇国の安危は正に学徒の双肩にあり。今にして奮起せずんば皇国の必勝を念じ後に続くものあるを信じて散華せる幾多勇士の忠霊に応うるの道なきを奈何せん。熱血を打って滅敵の一丸たらしめ特別攻撃隊諸勇士に後るることなからしむる様学徒隊の組織及び運営に渾身の力を竭し万遺憾なきを期すべし
と訓示した。この訓示に基づき市立女学校全生徒及び教職員は七月一日午前十時より学徒隊結成式を挙行した。この式の次第は、
一、修 礼

二、国民儀礼 宮城遙拝 祈念

三、唱 歌 君が代

四、上諭奉読

五、学徒隊組織発表

六、訓 辞

七、誓 詞

八、唱 歌 海ゆかば

九、修 礼

右の通りであり学徒隊は下図のように結成された。

かくて生徒は完全なる軍隊的組織の下、高学年生徒は軍需工場に心血を注いで敢闘し低学年は疎開作業に精魂を打込んで祖国の必勝を念じつつ血みどろの努力をしていたのである。そして遂に運命の日八月六日を迎えたのである。

広島県及び広島市当局は敵の焼夷弾攻撃を防ぐために市内五カ所に大空地を造る計画を立て市民に至急疎開を命じた。県庁より少し上手の材木町附近及び革屋町郵便局附近、比治山橋附近、及び文理大学前の一帯及び土橋附近の五カ所で人々は家財道具をまとめて引きあげるために実に戦場のそれよりも大なる混乱の中にあった。しかも家屋の取毀しは軍隊が出てこれを行いその後片付を中等学校低学年の学徒隊並びに隣組の義勇隊が出て整理をするのであった。

八月五日作業第一日は繁森教諭以下職員十数名、生徒一年二年五百余名で出動、県庁前にて朝礼を行い現場に出動し砂古教諭、横山教諭等元気に活躍し竹の切れや木片を集めて焼却し瓦礫を集めて穴に埋め整地を行う等大いに働き、又近郊の村々例えば安佐郡の川内村の方々等は廃材をもらうために牛車を引いて来て男女の一群は麻縄の太いもので、エンヤエンヤと家屋を引き倒す。倒れた家屋の主なる材料は荷重に積む。瓦等の破損していないものもこれを車に積む。そして運搬係の人々はこれを引いて帰る。一家を引き倒せば、次の家を倒す、生徒等はこの後片付をやる、というようなことで作業は午前七時に始まり十一時で打切り解散となるのであった。自分は重松、砂古、横山三教諭と県庁前の植田秀嶺氏の家に到り、三教諭は自転車を植田氏宅へ預けてあったものを取りに立寄り勝手口で植田氏の奥様と話しているのを自分は道路で待っていて奥様の声のみを聞いた。この奥様は昭和十九年十月に六年間の闘病生活の後死んで行った私の前の妻と県女で同期生であられた。それで戦争末期で、物資や人の欠乏して困った時、看護婦さんや家政婦さんの世話等をなさって下さったお方で誠に感謝致していた、その人の声もこれで永遠に聞くよすがもなく金の間銀の間があると噂の高かった堂々たる大邸宅も一瞭にして灰塵となったその悲劇が明日に迫っていようとは思いもそめぬことであった。

八月五日の夜は敵機が燧灘を北上中と放送があり夜もおちおち眠れなかった。暁頃空襲警報は解除され人々は作業に出動した。自分は朝早く皆実町の自宅を立ち出でて、白神神社前にて電車を降り木橋を渡って木挽町へ出て誓願寺の少し下手の西福院の土塀の南側に生徒を集めて朝礼を行った。そして身体の弱い生徒数名は生徒の持物すなわち水筒、弁当を塀の前におかせてこれの見張りをすることとし作業を開始した。自分は繁森教諭と並んで立って生徒の作業を見ていた。ところがその日は、自分は県の学務課から教員人事について話があるから出頭せよと言われていたので八時十分前任に繁森教諭にその旨を告げて現場を去って県学務課へ向かった。当時県の学務課は尾長町の盲学校に疎開していた。自分は木橋を渡って白神神社前の停留所に向かった。橋を渡る時、重松教論の組の生徒が自分に手を振って愛嬌をふりまいてくれた。自分もこれに応えて手を振って橋を東へ渡った。平和大橋を通るたびに今もその生徒の姿が目に浮かびやるせない悲しみに胸が傷む。橋の上では又市立商業学校の教頭箱田氏に出会った。箱田氏が私は少し遅れましたと言って西へ渡って行かれた。これが箱田氏との永遠の別離であった。白神神社前に行くとちょうど広島駅行の電車が来たのでこれに飛び乗った。そして駅前にて下車、線路を渡って駅に向かって右側松原町の歩道を数間猿猴橋通りを愛宕の大踏切へ向かって行こうと歩いた刹那、電車のポールの高さにパッと大きな大きな電光を見た。その光は電燈の光のようであった。

するとちょうどマグネシュームを焼かれた時と同様に、目は眩みいかにして倒れたか、いかにして吹っとばされたかそれは全然判明せず、家の下敷になっている自分を見出した。ちょうど横に女の人らしい声で助けてくれと叫んでいる。しかし木や瓦の下敷となり身動きは出来ない自分は、駄目だもうやられたと決心した。その時考えた事は、自分はもう駄目だ、それは任方がない。唯可哀相なのは未の女の子の和子だ。それは昨年十月母が死んだ、それで去る七月空襲も烈しくなって危険だからと思って讃岐の兄の家に疎開して預けてある。あの子が自分が死ねば実の父母共になくなって孤児となる。可哀相なことになったとそれだけを考えた。そのうち意識がなくなりどれ程の時間が経過したかわからない。そのうちに身体を圧していたものが軽くなり、地上にひざを組んでいる自分を見出した。自分ではい出したものか、誰かに助けられたのかそれも判然としない。唯道端に坐って、電線の切れたのが身体にふれて煩わしいのを手で払いのけたのを覚えている。周囲を眺むれば家は倒れ既に煙が地をはい太陽は煙と埃でちょうど月夜のような姿で、その辺には犬が死んでおり人が倒れている。さて自分は助かったと思った。しかし頭が馬鹿になって多分広島駅前の道路に居ったものと思うに自分ではどこに今いるのかさっばり判らない。とにかく立ち上がって、ふらふらと夢遊病者のようにさまよい歩いた。

しかし不思議なことに、やはり幾度か通った道を歩いたものと見えて、西蟹屋町の日本製鋼広島分工場に辿りつきあの煉瓦を見て初めて気がついた。アッ、これは日本製鋼だ。ここには生徒が居ったはず、怪我はなかったかと煉瓦塀の破れから中へ入って行った。すると元気な工員の人が自分を認め自分の首や頭が埃で真っ黒くなっていたのを水で洗い流し油薬を首や手に塗ってくれた。ここで横になって暫く横臥した。しかしかくてはいけないと工場を立ち出でて、大正橋をわたって段原大畑町の的場からの電車線の曲り角に出た。そこには避難の群集が大勢集ってゴッタ返しをしている。見れば、女の人はほとんど真っ裸で男も半裸体で血は流れ、肉は垂れ下がり人間の姿とは思えない。

今も記憶に残るのは泣き叫ぶ幼児の背中に女の人がおしっこをしかけていた事で、尿によって火傷のいたみを癒さんとしたものと思う。自分はこの有様を見ている時に気分が悪くなって倒れそうになった。その時市女の父兄で森原様とおっしゃる人の奥さんが自分の手をとり、先生危ない薬をあげますとて胸の所の傷を消毒して下さった。そしてこれ等群衆と共に比治山に避難して軍隊の作ってあった防空壕に入って仰臥した。壕の中は血みどろの老婆、死に瀕せる電信隊の兵隊さん、両眼を失明せる電燈会社の人、泣き叫ぶ子供、全く地獄の絵巻である。午後何時頃であったか頭のいたみもやややわらいだので、比治山の陵にはい上って眺むれば、全市は火煙につつまれ生徒職員の作業せる木挽町一帯は全く火の海との事で、生徒職員が危ない、何とかならぬかと断腸の思いでいても立ってもおれない悲しみであった。夜になってやっと山を下り、電信隊の南側の自分の家に辿りついた。

家は見るかげもなく破壊され、夜は蚊の襲来に加えてひっきりなしに敵機の飛来あり、まんじりともせず夜を明かした。明くれば七日朝早く起きて頭を繃帯でしばり、旗竿の折れたのを杖について電信隊横の皆実町の家を出て比治山橋を渡り鷹の橋に向かった。比治山橋を渡った所で馬が死んでいた。道の両側はなお残火と余熱で熱くてかなわない有様。鷹の橋で日赤病院を見れば前の電車道まで負傷者が横たわってねている。住吉橋、明治橋の橋げたには水死人がうず高く折り重なって死んでいる。やっと住吉橋をわたって舟入町を見れば市女校舎の一部が倒れずに立っているのを見て涙の滂沱として頬を流れるのを覚えた。

やっと学校に辿りつき、防空壕の中に臥て父兄と職員の会話を聞きその無惨さ哀れさ、父兄に申し訳ない心持で生きている気はしなかった。生き残った職員はよく働いた。現場に出動して屍体を集め軍隊に依頼して焼却し遺骨として持ち帰り、遭難現場には標札を立て行方不明の生徒を尋ねて各収容所を尋ね歩いて血みどろの活躍をつづけた。

上野教諭の御主人は誓願寺の中で死去せられたとか、森教諭は西福院の反対側の寺院の門前の大きな水漕に生徒数人を入れ自分は生徒を火より守るためにその掩となって死んでいた。生徒の中で唯一人救われて似島収容所に収容され一週間程生存したという森本行恵さんは、死に臨み看護の人に語ったところによれば、生徒は作業中爆撃を受け即死せるもの多く元気であったものは県庁橋に向かって逃げた。しかし木挽町の火の中を逃げる時、五人六人と次々に倒れて行った。これ等倒れる生徒は、天皇陛下万歳万歳と叫んで死んでいったと、純真無垢なる若き乙女は一途に陛下のため国のためと挺身、死に赴ける次第にてその心情を察すれば、何と申してよいやら可哀相にいじらしく身も世もあらぬ心地のする次第である。しかも終戦後に至り今まで隠蔽された現実の戦争の有様や敵味方の戦力の格段の差や軍閥、官僚、財閥等の利己心による国民を犠牲に供せし数々の事象を見るに及び、逝きし人々の事が唯々不憫に相すまない心地して悲憤の涙にむせぶ次第である。

八月九日ソ連は日本に宣戦を布告して満州に侵入した。日本はこのソ連の参戦になすところを失い、広島の原子爆弾の衝撃により遂に力つき、御前会議において陛下は降伏を主張せられ、ポツダム宣言の受諾を連合軍に申し入れ八月十五日無条件降伏、ラジオを通じて国民に詔を賜い遂に国体の護持を得て降伏するに至った。

追 悼 の 歌
宮 川 造 六

教へ子を水槽に入れ自らは
掩ひとなりて逝きし師あり

萬歳の聲をいまわに倒れゆきし
清き乙女の赤き血の色

ゆきゆきてかへらぬ人の面影を
しのびて夜半の木枯をきく

――持明院内追悼碑に刻まる――

出典 『流燈 広島市女原爆追憶の記』(広島市高等女学校 広島市立舟入高等学校同窓会 平成六年・一九九四年 再製作版)八~一七ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和三十二年(一九五七年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】

  

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