昭和二十年八月六日。あれは今から十九年も前になる。十五才だった。毎日学徒動員で、マッチ工場ではマッチ棒揃え、糧秣廠では罐詰磨き、被服廠では血膿のついたボロ布れのよりわけ、まともに学校に通ったのは女学校の二年までで青春などというものはなかった。いよいよ戦争も末期になって、老若男女を問わず銃後の守りに狩り出された私達は、学校の教室にそれぞれの家庭のミシンを供出し、朝から晩まで、軍隊の蚊帳を縫い、袴下を縫い、物も言わず、笑わず、みんな泣きもしなかった。
それから、アメリカのB29爆撃機の空襲が、教室の窓から見えるようになって、私達の仕事は日本製鋼所での弾丸つくりに変っていった。
朝勤、昼勤、夜勤、暁勤、の一日四交替のぶっ通しで休みなどというものはなかった。何百、何千、何万という日本中の少年少女が弾丸をつくった。
なぜ、泣かなかったのだろうか。
なぜ、訴えもしなかったろうか。
エメラルドの五月の色などは、覚えてもいない。
みんな黒焦げた丸太棒のように、パシパシに乾いてうづくまって戦争の道を転がっていった。
そして、もう戦争は、弾丸づくりだけでは間に合わなくなっていた。
私達も兵隊と同んなじに、簡単な試験と訓練をうけ、敬礼をし、捧げ銃を習って、いよいよ明日から、広島の第二総軍司令部に配属されるという日。
選ばれたという僅かな誇りがあったようにも思うし、もうそんな気概などなくなっていたようにも思う。
八月六日、朝。
青い空だった。みんなが出はらって、私と祖父は、B29の爆音をきいた。音がだんだんと不気味に近づいて来て、もうどうしようもないと思った瞬間、物凄い轟音と共に赤黄色の粉が炸裂した。とうとう落ちたのだ。とうとう私のところに爆弾が落ちた。私はやられた。
外にいた私は爆風で飛び、家の中でうつぶせになり、柱や、屋根が背中に落ち、畳に血が流れた。どこをどう怪我したのかわからなかった。夢中で祖父を呼び倒れた屋根の上で足がふるえた。
逃げよう。もう隣の屋根は燃え上がった。
火の手に追われ、追いつめられて山に逃げた。みんな爆弾が自分の家に落ちたと思い、家中がみんなバラバラになって、髪を逆立て、自分の皮膚をぶらさげ、わあわあ、わめき、叫び、泣きながら山に上った。
広島市中に黒煙がふき上り、空を覆って天に上り、真黒い重油のような雨が降った。一瞬の出来事だったと思うのに、山を下りたときは午後の三時だった。
父や母や、姉や妹も、みんなバラバラになってしもうて、家が灰になり、何もかも灰になり、まだ熱い焼跡に立って、私の心も灰のように焼けた。
それきり妹は帰って来なかった。女学校の一年生で、爆心地の真下へ建物疎開作業の動員に出ていた。
朝は元気で出て行ったのに、爆風でお寺の塀壁の下敷になって死んでいた同級生や、水槽の中で片足しか残っていなかった生徒。
名もなく、道もなく、青春もなく、勲章ももらわずにみんな木の葉のように焼かれて、消えて行った。妹は死んだ二十万人の中にいるのだろうか。
逃げおくれ、はみ出て、そこいらに忘れ去られ、ペンペン草にでもなったのだろうか。
着物は焼きはがれ、丸裸でふくれあがり、名を告げる力もなく水を乞いながら、海に流れていったのか。生きながら、からだ中、ウジ虫がわいて、どこの誰かもわからずに、焼き捨てられてしまったのだろうか。
あれから十九年、妹は、この世の中に何にも残さずに消えていったままなのです。
おいしいお菓子も食べられなかった。一カ月に二日分のお米の配給で、後の日は何を食べていただろうか。仏壇にあげるおはちのお下りも競争して食べた。
幼くて集団疎開していた弟達は、一粒の大豆を皮を食べ、二つに割って芽を食べ、それから半分づつ惜しみながら食べたという。みんなみんな、私たちは貧しくて、わびしくて、疲れ果て、泣く涙もなかった。
それでも、いったい何のために、誰のために、戦争をしているのか。いったい、誰が戦争をおこしたのか、考えもしなかった。
それもそうです。
見ざる、言わざる、聞かざる、という三匹の猿の絵が、学校のポスターコンクールで一等になったこともあったのです。
何も見ないで、何も聞かないで、何も言わず、何も疑わず、追われる小羊のように私たちは戦争にかり出されていきました。
そして原爆が落ちたのです。
でも、もう私は絶対に戦争はごめんです。
いったい、誰が戦争をおこしたのか、そして、また性こりもなく、誰が戦争を企んでいるのか。いまこそ、この目でしっかりとみつめ、考え、まどわされず、明らかにして、平和を願うこの気持をみんなに伝えたいと思います。
出典 『木の葉のように焼かれて 被爆婦人の手記 第一集』(新日本婦人の会広島県本部 昭和六十二年・一九八七年 改訂版)十七~十九ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和三十九年(一九六四年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】 |