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友人の親切に生かされて 
平岡 周三(ひらおか しゅうそう) 
性別 男性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2020年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広陵中学校 3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
私は安芸郡瀬野村(現在の安芸区瀬野二丁目)で生まれ育ちました。今も当時と同じ家に暮らしています。家の周りは、昔は家はほとんどなくて田んぼばかりでした。後の国鉄瀬野機関区を退職した父の孫助(当時五五歳)、母のチサヨ(当時四九歳)と私の三人家族で、農業をしながら暮らしていました。
 
本来、私は七人きょうだい(女四人、男三人)の一番下になるのですが、上のきょうだいたちは、病気や事故のために、ほとんど乳児の頃か、長く生きた子でも三歳までに亡くなりました。ですので両親は、私も小さい頃には肋膜や肺炎を患う体の弱い子どもでしたが、この子を死なしてはいけないと一生懸命育ててくれました。
 
●学徒動員
昭和一八年(一九四三年)春、私は私立広陵中学校に進学しましたが、授業があったのは最初の半年ほどでした。月に一度くらい学校に集まりますが、説教を聞くだけです。集合の鐘が鳴って整列までに一分かかってはいけないという規則があり、何度もやり直しをさせられました。真夏の暑さの中でも、熱中症にでもならない限り許してはもらえません。勉強ではなくそのような訓練ばかりでつらかったのですが、文句を言うと国賊だと言われるので、誰も文句は言いませんでした。
 
戦争中はいろんなところに動員され作業をしました。安芸郡海田市町(現在の海田町)に、陸軍需品支廠といって食べ物やいろんな品物を集めているところがあり、その品物を船に積むのを手伝ったり、広島市水道部の牛田水源地にも動員されました。牛田水源地には水を溜める場所があり、警戒警報が鳴ると山から切り出した木を、網を張った上に並べて、カムフラージュしていました。でも、アメリカは空から全部写真を撮っていたわけですから、むだなことでした。
 
原爆に遭ったのは三年生の時で満一五歳になる直前でした。あの夏は、水道部の仕事をしていました。建物疎開で家を壊す前に、鉛管を取り出すために家の中に通っている水道を掘り上げる作業で、中学生一〇人くらいが一つのグループになり、そこに水道部の職員が一人ついて指示をしていました。家を壊さなければいけないから早く掘れとせかされながらの忙しい作業でした。
 
建物疎開の現場から、鉛管を水道部まで運んで帰るのですが、大八車が電車の線路の幅にちょうどはまって動かなくしてしまうことがあり、そのたびに怒られていました。
 
●被爆の瞬間
私は体が弱かったので、八月六日の前から一週間ぐらい水道部の仕事を休んでいました。体の具合が悪かったと言い訳しても、みんなが働いているときに休むことは許してもらえず殴られるに違いありません。現場に戻るのがこわいので、その日は父に長期欠席の事情を説明しに水道部について来てもらうことにし、父と一緒に家を出ました。
 
六日の朝、七時ごろには警戒警報が鳴っていましたが、瀬野村の家を出て列車で広島駅に着いた時には、解除になっており、飛行機も見えませんでした。水道部までは市内電車で行こうと、広島駅前停留所で列に並びました。あの頃は車掌もおらず運転手だけなので、一列に並んで前から乗ります。そのとき、一番前に並んでいた一級下の太尾田時男くんに会いました。彼は、私と父が一緒にいるのを見て順番をゆずってくれたので、私たちは一番先に電車に乗り込み、車内の一番後ろに立ちました。電車はすし詰めでした。
 
電車に乗って間もなく、急にぴかっと光りましたので、電車が火事になったかと私は思ったのですが、その後真っ暗になりました。私と父が立っていた車内の一番後ろは、原爆の熱線が来る方向から見て一番奥にあたり、荒神橋の角に建っていた三階建ての建物のちょうど陰を電車が走っていたこともあり、私たちはやけどをせずに済みました。
 
電車はひとりでに橋から下り坂を逆もどりして止まりました。暗い中、電車が火事だから降りなければと思って、降車しました。
 
だんだん明るくなって辺りを見ると、周りの家はぺしゃんこになってつぶれていました。人々は髪を乱して、顔からは皮膚が垂れて、服もつけず裸同然になっていました。私はけがもほとんどなく無事でしたが、「学生さん、何か貸して下さい」と言われても、自分の服をあげるわけにもいかないし、何もしてあげられませんでした。
 
荒神の大通りには、人が集まって、「あれは何だ」「爆弾じゃ」「特殊爆弾じゃって言いよったで」などと話していました。私も、また飛行機が来るのではないかと思い、自分も逃げなければと思い、自分が逃れるのに必死で、一目散に逃げたので、周りの人がどうなったのかも父と別れたことも気が付かず、父のことは家に戻るまで思い出しませんでした。
 
途中で建物の下敷きになった人が、「助けて、助けて」と声をあげるのが聞こえました。その人は死んだのだろうと思います。この世の地獄です。
 
●瀬野村まで歩いて
それから私は、広島駅の北の東練兵場に行きました。小さい頃に東練兵場には飛行機がおりるのを見学に連れていってもらったことを覚えており、広い場所だからあそこへ逃げればいいと思ったのです。着くと倒れた人がいっぱい並んでいてかなりの人でした。遠くにところどころ火の手が上がるのが見えました。
 
東練兵場で二中(県立広島第二中学校)に通う一学年下の従弟の脇地二三くんに会いました。二三くんは首をやけどしていました。彼は動員されて東練兵場で芋をつくっていたのですが、朝の点呼のときに、原爆に遭ったのです。東練兵場を出て、彼を連れて逃げました。安芸郡府中町の麒麟麦酒広島工場にはすでに救護所ができていたのでそこに行きましたが、薬がないので、二三くんはやけどにてんぷら油を塗ってもらいました。
 
とにかく家に帰らなければと思い、汽車がないので歩いて帰るしかありません。たまたま救護所で会った、瀬野村から市内の学校に通っている学生三人が加わり、私と従弟の二三の五人で、瀬野村を目指しました。
 
向洋駅の近くに鉄道局の教習所があったのですが、そこで飛行機が見え、警戒警報が鳴ったので、教習所とは反対側の山に隠れました。隠れていたとき向こう側の山の上には黒雲が立ち込めているのが見えました。私たちがいたところは、ぱらぱらと雨が降るぐらいだったので、たいして濡れませんでした。雨はまもなく止んで、警戒警報も解除になりました。
 
二三くん以外の人に特に外傷はなかったのですが、道中、皆「しんどい、しんどい」「休もう、休もう」と言っていました。私は元気だったので、皆の弁当を持ってあげ、ほかの皆は手ぶらで、休み休み歩きました。あのときは必死だったので気にしませんでしたが、今思うと歩くのは大変な距離です。
 
歩くより仕方ないので、何十人もの人が歩いていました。市内から逃げてくる人がやけどしてひどい様相なのを見たり、街が全滅というような話を聞いて、市内に向かう人の中にはわんわん泣きながら歩いて行く人もいました。
 
家に帰り着いたのは午後三時ごろでした。そこで初めて、父のことをすっかり忘れていたことを思い出しました。
 
父は被爆直後、私を捜して大須賀町にいた父の妹を訪ねて行ったのだそうです。私がそこに行っているかと思ったのです。でも私がいなかったので、父も歩いて別々に瀬野村の家まで帰ってきたのです。父は私よりすこし先に帰っていました。
 
●被爆した友人
電車の順番を譲ってくれた後輩の太尾田時男くんは、広島駅前停留所で電車を待っているときに被爆したので、やけどでずるむけになりました。私たちの身代わりになってくれたようなものです。近所なので見舞いに行ったのですが、蚊帳の中は臭くて臭くて近寄りがたいほどでした。薬がないので、馬糞を干して乾燥して藁のようになったものをつけていました。体じゅうウジが湧くのを見て、その時私は彼はもう長くないかも知れないと思いましたが、長生きして四、五年前まで存命でした。私たちに親切にしてくれたので、助かることができ、長生きしたのではないかと思いました。
 
一緒に瀬野村まで帰ってきた二三くんも、やけどがひどく心配しましたが、彼も一昨年まで生きました。自分で事業を興し、晩年は造園業を営んでいました。
 
一緒に帰った残りの三人は、けがはしていなかったのですが、一週間から一カ月たった後に、皆亡くなりました。一緒に帰る道中話さなかったので、彼らがどこでどう被爆していたのかは分かりません。
 
●被爆後の体調不良と戦後の暮らし
私は無事に家に帰ってきましたが、三カ月ほど、ご飯が食べられなくなりました。被爆の時に鼻についた死体の臭いがよみがえり、食べようとすると胸がつかえてどうしても食べられないのです。体重が三七キロまで減りました。その後も体の調子がよくないので、学校は中途退学せざるを得ませんでした。すぐに風邪をひいたり体調を崩したりしていたので、なぜ自分ばかりこんなに弱いのだろうと思っていました。
 
終戦を知った時の感想は、「負けたんじゃげな」というぐらいでした。戦争に勝っても負けても、食べるものもなくひどい世の中なので、勝ち負けに関心がなかったのです。
 
戦後郊外の我が家には、全部で五世帯くらいが身を寄せて一五、六人くらいで暮らし、避難所のような状態でした。そのうち三人は親戚で、大須賀町に家があったのですが六日は家におらず原爆に遭わなかった父の妹と、大阪から戻ってきた従妹と、憲兵だった広島の親戚でした。憲兵の親戚は戦争中はジャワ島に行っていたそうです。ほかに、母の同級生で呉で爆撃に遭った人や、大阪の空襲で家が焼け、逃げてきた人もいました。我が家は三人だったので、母が、「来んさい」と言ったのでしょう。短い人は三カ月くらい、長い人は三年くらいいました。子どもが四人ほどいましたが、一人は我が家で亡くなりました。
 
●退職まで地元に勤める
私は学校を辞めた後、しばらく何もしていませんでした。外に出られるようになった頃、ちょうど役場の仕事があると聞き、働き始めました。
 
昭和二四年に勤め始めた時は瀬野村役場でしたが、その後合併を重ねて瀬野川町、広島市と変わりながら、平成元年に退職するまで勤めました。最後は、福島町にあった食肉市場を西区の商工センターに移転する担当になりました。いろいろな規則をつくり、街が秩序を保ちつつ発展するように努めました。勉強になりましたし、楽しかったです。
 
あまり丈夫でなかった母を安心させるため、皆さんが結婚話の世話をしてくださいましたが、被爆者であることでまとまらなかったので、志和の親戚から妻が来てくれました。結婚式まで顔すらよく知らないままのスタートでしたが、結婚してもう六六年になります。息子が三人、孫が九人、ひ孫が六人、子どもも孫も皆元気で、安心しています。
 
被爆者健康手帳は、昭和三五年に取得しました。二五年前には大腸がんになりましたが、現在、満八九歳になります。私は生まれつき体が弱かったのに、よくここまで生きられたと思います。一緒に被爆した父も、その後、満八一歳まで生きました。今は脊柱管狭窄症なので、あまり歩けないのですが、ここまで生かされていることにありがたく感謝しています。
 
●若い人たちに考えてほしいこと
もちろん戦争はあってはなりません。それは分かりきったことなのに、世の中に喧嘩がなくならないのはなぜでしょう。国の問題でも親子の関係でも、争いがあって悲劇につながっていくわけですから、あらゆる争いがなくなっていかないとだめだと思います。
 
退職後、私は町内会や社会福祉協議会などの役員を長く務めました。瀬野みどり坂を開発するときにも、区画整理組合の理事長として地域の意見を取りまとめました。文句を言われはすれど報酬はなく、楽しい仕事ではありません。しかし、長年そのような仕事をやって思うのは、世の中をよくするためには、自分だけが楽をして自分だけがよければいいという考え方ではなく、お互いに協力したり、思いやることが大事だということです。若い人たちには、もうすこし奉仕の精神を持ってもらえればと思っています。 

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