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被爆体験について 
松下 眞紀(まつした まき) 
性別 女性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(間接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 高等女学校 4年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は当時女学生で被爆者手帳は第三号です。
 
六日の朝私は朝礼で校庭にいました。ピカッ!と光りドン!と云う音と共に一同くもの子を散らす様に逃げました。多分午後になって指令があったのでしょう。駅までたんかを持って被爆者を運びに行きました。近くの小学校が臨時の病院になり主に兵隊さんが運ばれ以後毎日毎日看病に明け暮れ、次々と死んで行かれる人を呆然と見送りました。今考えても地獄を見た思いです。
 
当時の日記より(旧制、高女四年生)
(八月六日)今日は忘れられぬ日だ。朝礼をしているとピカ!とひかり又どん!と大きな音がした。びっくりして見ると真白いきれいな、でも恐ろしいB29がゆうゆうと飛んでいた。その時はあまり大ごととも思わなかったけど、とても大ごとで広島中火の海だ。罹災者が一杯帰られた。皆でたんかでかつぎ込んだりした。私は見た。光線バクダンとか云う始めての新兵器を使ったのだそうだ。一日中ほとんど作業しなかった。
 
(八月七日)今日も朝から国民学校の講堂へ看護に行った。一日中とても忙しかった。
 
(八月一一日)今日は一日中頭が痛かった。毎日の看護で、又今頃少しムリをし過ぎたりしたのが悪かったのだろう。自分も体が悪いくせに(私は体を悪くして一年下のクラスと学校、工場へ行った)。兵隊さんが沢山帰られた。負傷者だけ三○人位だ。
 
(八月一三日)もう一日休みたかったけど行ったがまだまだ頭が痛かった。兵隊さんが国民学校に一杯だ。一日に大分多く死なれる。気の毒だ。とても忙しい。きたない仕事まで皆して上げている。
 
(八月一五日)今日はお盆一日休んだ。家でゴロゴロとしていると戦争を忘れた様だ。又明日からズルズルの兵隊さんを世話すると思うと…でもこれも国のため。
 
(九月四日)今日四年生は広島へ出発(市内被爆者の救護)。広島の土地にウラニウムとか云う毒があるそうでそれを吸ったものは火傷はなくても死んで行くそうだとの事で皆学校へこない。四年生はたった六五人だった。家の祖父も毒を吸っているから心配だ。
 
以上抜粋しましたが看護は今思い出しても悪夢の様な毎日でした。耳が半分取れてぶら下がったりヒフがボロ切れの様に裸の体からたれさがり、又ある少年は頭がパクッと三分の一位の所から割れてその傷は早や、くさり始まっていたり、小学校には毎日被爆者が救護を求めて集まり講堂も教室も一杯になりました。そして次々と死体は裏山に運ばれその死体を焼く臭いで町中包まれている様でした。 

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