当時福岡市の西日本新聞社の社会部で働いていた私は上司の命で原爆の投下後の現状の記事を書くことと、広島支局員が全滅だといふのでその骨を拾いに広島に派遣され二日目の入市だった。文化部長と写真班と一緒だった。始めに己斐の支局を訪ね支局長の家を連絡先に決めて、まづ広島支局の人々の骨を拾うことにした。とにかく異臭で鼻が曲ってしまいそうな臭いだった。翌朝早く出立した我々はあまりの惨状に声がつまってしまった。皆はだかではだしでボロ布のように皮膚が焼ただれて下って、二、三人づつ肩を抱き歩いていた。目玉が半焼けになってあごのあたりまで落ちかかっている人、お乳がポックリと逆さにぶら下っている人たちがヨロヨロと歩いていた。一面の死体だった。黒こげの死体を兵隊がトラックに積上げていた。中には息きのある人もいた。「あの人まだ生きてる」と私がいうと支局長が「島まで持って行って焼くのだけどそれまで息は無うなっているよ」と云われた。電車は、其処に満員の人をのせた電車が走っていたのだなと判る程度の鉄骨と、満員だった人々の白い骨のあるのみだった。広島駅もくづれ落ちるとかたい物をふんだなと思って見ると焼土の中に死体があって飛上ってしまった。天水桶に半身突込んで腸をはみ出して水をのもうとしたまま息絶えたのだろう、仲々支局のあった所がわからず翌日も朝から中心部を歩いた。とにかく「地獄だ、地獄だ」と心の中で叫んでいた。三日目位に支局員の骨を拾って、私と同行の母と二人で今度は自分の姉や弟妹を探しに出かけた。途中太田川だったと思うけど川に沿って南下した。川の面は一面裸の死体で両側の岸のコンクリートの所に死んだ人や、かろうじて生きている人が一面にかさなり合って「水ッ水ッ」と叫ぶと、援けに来ていた兵隊が長い柄のひしゃくで川面の死体を寄せて水場をつくりその水をコンクリートの人々にバシャバシャと掛けてやっていた。ある橋の上で裸の六才位の男の子の「お母ちゃんお母ちゃん」と泣きじゃくる声がとても悲しげだった。
やっとたどりついた暁部隊の人たちに小さな舟に乗せられ小さな島に逃げていた姉と妹達に逢えたのは暗くなってからである。宇品の入口にあった家は飛んで何も無くなっていたので我々はとても心配していたのでまづは安心したが、妹たちが体に三七ヶ所ガラスがささっていて頭の点ぺんはジクジクになって焼けていたので随分心配した。十四日、部隊のトラックで徳山から、特攻隊の汽車に乗って門司の駅で天皇の聖詔をきかされた、久し振りに帰り着いて電気がつけられて嬉しかった。
でも私は広島市の中心を何度も歩いているので二次放射能にやられ早速高い熱と髪は抜けるし、白い液体に血が一杯まざったものを吐いたり、すっかり寝込んでしまった。
次来五十年、づっと点滴をしない日(血管が出ないので苦労する)はなく、肝硬変を始め十一もの病気を持った上に、骨々が痛んで何とも云えない苦しい日が続いた。現在も寝た切りである。寝てても苦しい、五〇年何と長く苦しかったことか、点滴を打っては働いて来た。でももう働けなくなった。私の人生とは何だったのだろう。一生被爆で苦しんで来た人生だったと思う。 |