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体験記を読む
ピカドンに耐えて 
堤 武博(つつみ たけひろ) 
性別 男性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市幟町〔現:広島市中区幟町] 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 中国軍管区広島地区司令部広島地区第1特設警備隊(中国第32037部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
昭和二年(一九二七年)一一月二〇日、広島市段原東浦町にて四男一女の四男として生まれる。
 
昭和一七年四月一日、一四歳で日本製鋼所広島製作所に入社。警備召集先の幟町国民学校で被爆(爆心地から一・一キロ)。被爆当時一七歳。
 
戦後、引き続き同社に残り、四三年あまりの勤務を終え、昭和五九年一一月退職。平成四年一〇月、娘たちと同居するため広島より新潟に移り、現在は、妻と娘夫婦、孫二人の六人家族で暮らしている。新潟市に在住。
 
まえがき
 
ピカドンとは、太平洋戦争末期の昭和二〇年八月六日(月曜日)午前八時一五分、広島市平和公園、原爆ドーム(元・産業奨励館)上空で一発の原子爆弾がピカッと光ってドンと炸裂したことを、当時の市民が「ピカドン」と表現したものである。その瞬間、一〇数万人の死者を出し、負傷者も一〇数万人と言われている。無事、無傷で帰ったとしても、放射能の影響で死者が出る。当時、五〇年間は草木も生えぬと噂され、五〇年過ぎた今も、その後遺症がうんぬんされている大変恐ろしい爆弾である。
 
私たち特設警備隊約三〇〇名は、爆心地より一・一キロの幟町国民学校に駐屯していて被爆した。死者は判明分だけで二七六名、不明分を入れると、生存者はわずか数名と思われる。学校関係者の生死については、その実数は不明である。
 
この文章は、幸いにもピカドンに耐えて生き延びた、当時一七歳の私の体験をまとめたものである。会話文は広島の方言のまま表した。
 
地獄よりの帰還
 
昭和二〇年、本土決戦が叫ばれ、太平洋戦争もいよいよ緊迫感を深めていた。勤務先は日本製鋼所広島製作所で、魚雷発射管や戦車・高射砲・弾丸等の軍需工場だった。産業戦士と呼ばれる私たちは、日夜休みなく兵器増産に励んでいた。
 
七月二七日、勤務先から帰ると、三度目の警備召集令状のハガキが来ていた。「堤二等兵は七月二八日、幟町国民学校を兵舎とする第一特設警備隊中部第三二〇三七部隊に入隊せよ」とのこと。文面では「二等兵」だが実際は徴兵検査(一八歳)前で、兵隊ではない。また来たかと思ったが、あわただしく準備をした。

翌日部隊に行くと、今回は世羅郡より四〇代の予備役が多く入隊したためか、若者は二階に上がれとのことだった。私は勤務先の友人京谷秀夫君と北側校舎西寄り階段脇の二階教室に落ちついた。任務は、昼は兵舎内の防空壕掘り、夜は荒神橋手前の的場電停の南角の民家に駐屯し、大正橋の警備に当たるというものだった。朝は兵舎に帰って昼まで仮眠するのが日課だった。
 
七月三〇日には、母が炒った大豆と苺を持ってきてくれたのでとてもうれしかった。友人と内緒で食べたその味はとてもうまかったことを覚えている。
 
八月二日、隊長より、明日三日の正午に召集解除の予定が、三日間の延期を言い渡され、八月六日正午召集解除の予定となった。
 
さて、八月六日の朝、夜の任務を終え、兵舎に帰って朝食をすますと、またまた警戒警報が発令された。いつでも出動できるよう準備をして仮眠せよとのことで、私服のままゲートルを巻き、小銃とごぼう剣の位置を確かめて横になった。しかし、疲れと寝不足のため、すぐに寝入ってしまった。
 
すると突然、大音響とともに眠りを裂かれ、紫色の閃光が走った。窓際に寝ていたためか、一瞬、高圧線がショートしたかと思った。崩れていく校舎の土壁の臭い匂いのなかで、腰を強打し気を失った。
 
どのくらいたったのだろうか。京谷君の呼び声で気がつくと、土色の空が見えた。学校が直撃を受けたのかと思った。急いで外に出ようとしたが、右手首が大きな梁にはさまってどうしても抜けない。
 
「オーイ、手が抜けんのじゃがノー」
 
と言うと、京谷君が必死になってその梁をなんとか動かしてくれ、手を抜くことが出来た。幸い、手首の傷と腰の痛みくらいで他に傷はなく、京谷君も無傷であった。
 
「オーイ、どうなったんヤー」 
と言うと、彼も、
「知らんデー」
と言う。何事が起きたのか二人とも分からないのである。
 
腰の痛みを我慢しながら、崩れた校舎の瓦礫の上に立つと、土色の空にオレンジ色の太陽が不気味に見えた。周囲は薄暗く、中国新聞社の四階あたりが猛烈に燃えていた。見回すと、建物は倒壊して方々で火の手が上がっており、人影はまばらである。勤務先の友人、四国直登君が顔面より血を流し、呆然と立っていた。
 
「オーイ、大丈夫か」 
と言うと、 
「足をやられた」 
と言う。校庭の方に降りていく姿が痛々しく、まことに気の毒だった。
 
「オーイ、堤、手伝ってくれ」
と京谷君の叫び声。誰を助けているのかと行ってみると、酒保係の上等兵の編み上げ靴をはいた足首が大きな梁にはさまっており、京谷君はそれを外そうと苦労していた。その上等兵には特別世話になっていたので必死になって手伝っていると、京谷君は、
「ちょっと待っとってくれ、鋸を借って来るケー」
と言って瓦礫の山から降りていった。まさか広島市内全域が被災していようとは知るはずもなかった。
 
私一人で四苦八苦していると、突然校舎に火の手が上がった。上等兵が自分の剣を抜いて、
「このごぼう剣で足首を切断しろ」
と言うのだが、私にはとてもそれだけの度胸はない。あれこれ苦心したあげく、渾身の力を込めて梁を持ち上げると、幸いにも足首が抜けた。上等兵は大変喜んでくれ、一緒に校庭に降りたのだが、校舎の下敷きになって助けを求める声がアッチコッチで聞こえる。しかし火勢が強くて、なす術もない。身を切られる思いでその場を立ち去り、泉邸の方へと逃げた。
 
ところが途中で見たものは、全身ヤケドで皮膚が垂れ下がってさまよっている人。顔が黒く大きくふくれ上がって死んでいる人。腹が裂けて死んでいる人。衣服がぼろぼろに裂けた人。そして、聞こえたのは負傷者のうめき声。女の人や子どもたちの泣き声、叫び声。家がバリバリ焼ける音。さらに炎、熱風、悪臭。それはそれはまるでこの世の生き地獄であった。
 
やっと泉邸まで逃げたが、この広い庭園のなかでも大勢の死者やケガ人が、どうすることもできず横たわっていた。私は突然気分が悪くなり、朝食に食べたコウリャン飯を嘔吐した。川はちょうど満潮で、水を求めて川に入ったのか、死体がたくさん浮いていた。工兵隊の船が出て救出作業をしていた。
 
しばらくしてバケツでうつすような豪雨になった。黒い雨だった。私は木陰に入り雨をしのいだ。そのうち雨はやんだが、泉邸にも火の手が上がり、どこかでもの凄い爆発音が何度かした。私は貯油タンクか弾薬庫が爆発したのではないかと思い、危ないと思って常磐橋のほうへ逃げた。途中アスファルトの路面が熱く、はだしの足の裏が痛く、熱くてたまらない。我慢も限界だった。常磐橋の上で、
「堤!」
と声を掛けられた。振り向くと、顔が真っ黒くふくれ上がって、両手を前に出し、全身焼けただれ、皮膚が垂れ下がった人なのだが顔がよく分からない。誰だろう?
 
「あんたーだれヤー」
「ワシヨー、ワカランカー、河野順吾ヨー、お前はエーノー元気そうで」
勤務先の二歳上の友人であった。
 
「お前はひどいことになったノー」
「ホーヨ、昨日ノー、歩兵第一一連隊に入営してやられたノヨー」
五日に入隊し、翌朝爆撃にあうとは、最悪である。
「ホーカー悪かったノー。用心せいよ」
「おお、ありがとう、お前もノー」
気の毒であるが、どうすることもできず、そのまま別れた。
 
さて、辺りは猛火に包まれていた。熱風で体が熱くなり、ひどく水が飲みたくなった。
 
「水を飲むと死ぬる。水を飲むな」とみな言っていたのだが、水飲みたさの一心で、もう死んでもいいと思って橋のたもとに降りた。ここでも川にはたくさんの死体が浮いていた。
 
この人達も水を飲みにきて死んだのであろうか。私は死体の浮いているそばで川の水を手ですくって飲み、全身を濡らした。その時、会社の同僚の中尾君に出会った。そこからは二人で火勢を避けながら、牛田の二葉山方面へ向かった。
 
途中でまたとても水が飲みたくなったので、農家に立ち寄り「水を下さい」と頼んだ。最初はコップに一、二杯飲んだ。ところが、とてもそれではおさまらず、バケツを借りて水をいれ、二人で代わり番こにむさぼるように水を飲んだ。飲んだ水はすぐはいてしまう。しかしまた飲まずにいられない。バケツの水を飲んでは吐き飲んでは吐いた。
 
足の裏が痛いので、農家の人についでに「どんな下駄でもいいから下さい」と頼むと、快くくれた。その下駄をはいて二人とも魂が抜けたようになって歩き続けた。気がつくと矢賀町の方まで行ってしまっていた。「ヤアーレノー」と、また来た道を山根町まで引き返した。二葉山から比治山方面を望むと、もう夕方なのか、黒く家影が見える。私の家のある爆心地から二キロの段原東浦町あたりは比治山のおかげで焼失しない様子。中尾君の家がある大河方面も焼けていない様子だった。私が、
「オーイ、お前ガタもワシガタもあるようデー」
と言うと、彼も、
「ホージャノー」
と言って、二人は喜びのあまり、ようやく元気が出てきた。
 
山を降りて東練兵場に出ると、ここにも大勢の負傷者たちが呆然としていた。そこを通り抜け、愛宕の第二踏切を通り抜けると、また熱風の焼け野原である。消防自動車が丸焼けになっていた。たくさんの死体がころがっていて、悪臭がただよい、やり切れない思いだった。またもや熱風で体が熱くなったので、二人でそばにあった防火用水で体を濡らし、一気に走った。荒神橋を渡ると、電車の残骸が見え、私たちが駐屯していた民家もすでに焼けてしまっていた。その足で比治山線を抜け、段原本通り商店街に入った。
 
私が、
「オーイ、ホイジャーここで別れるケーノー」
と言うと、彼も、
「オーホイジャー気をつけてノー。ありがとう」
と言い、ここで中尾君と別れた。通りの民家は崩れ落ち、人影もまばらだった。爆風で飛ばされた道路の材木を踏み分け、やっとのこと家に帰り着くと、わが家もまた屋根が崩れ落ち、見る影もなかった。無残だったが、焼失するよりはましである。なぜか自転車だけは無事であった。
 
悄然とたたずんでいると、向かいの大野のおばさんが声を掛けてくれた。
「武ちゃん、元気で帰ったんネー。良かったネー。お父さんもお母さんも可部に行っトッテケー、心配シンサンナ」
と言われる。
 

「アア、ホウネ、ありがとう」
ひと安心であった。多分、疎開の荷物のことで行ったのだと思う。おばさんは自分の家も屋根が崩れ落ちているのに、
「今晩は何とかあるものを食べて、一緒に寝リャーエージャナイ」
と言ってくれた。庭に蚊帳をつって寝るつもりなのか。ありがたいことであるが、その家には私と同じくらいの人を頭に四人も娘さんがいたので、とてもそんなことはできない。
 
「エー、ありがとう。でも友達が来るかもしれんケー」
と言って、辞退した。
多分、六時すぎになっていたと思うが、途方に暮れていると、鋸を借りに行った京谷君が心配して尋ねてきてくれた。
 
「オーイ、無事帰ったカー」
と彼が言う。
 
「オー、何とか帰ったデー、ナーニガアンター、市内は丸焼けデー」
「ホーヨ、鋸どころか何にもアリャーセンヨー。ワシハノー、コンナ(おまえ)に悪い思うたケー来たんヨー」
「ホーカー、上等兵殿は助かったデー。苦心したヨー」
「ホーカー、良かったノー。ところで今晩はどうするんヤー」
「ホーヨ、どうしようか思うトルンヨー」
「府中に親戚があるケー、行こうヤー」
「ホーカー、そうするカー」
「その前にあいつの所へ行こう思うとるんジャガノー」
と言って京谷君は小指を出した。彼の彼女、尾崎さんのことである。
「ホーカー、よし行こう」
 
二人で比治山橋に向けて自転車で走った。自転車をこぎながら、燃えつづけている街を見れば、広島の街は全滅としか言いようがなかった。その時、本土決戦か、日本は負けるのか、大変なことになったと思った。当然ながら、尾崎さんはいなかったし、形跡もなかった。京谷君はとても心配していた。日も暮れかかっていたので、その足で府中町へ行くことにした。
 
府中町の京谷君の親戚では、広島のピカドンのことで話は持ちきりだった。そこから広島市内方向を望むと、まだ猛烈に炎が上がっているのが見えていた。その夜はそこにお世話になった。翌八月七日の昼過ぎ、お礼を言い、京谷君と別れた。これが彼との最後になるとは、そのときは思ってもみなかった。
 
自宅に帰ってみると、両親が帰っていた。
「オーイ、探したデー。警察官に聞いても兵隊に聞いても、市内は全滅ジャーケわからん言うし、困ったデー」
と父が言うので、昨日からの行動を話した。
「ホーカー、元気でよかったノー」
と両親は安心してくれた。
地獄よりの帰還は、大変長い道のりであった。
 
放射能との闘い
 
その日、さっそく壊れた家の修築に取りかかった。家族で手分けをして、雨風をしのげるよう屋根を直したり、家のなかの整理をしていると、勤務先の友人である若林君と石堂君が会社から頼まれ、安否を気づかって尋ねてきてくれた。大変うれしかった。会社のことや友人の話を聞き、こちらも昨日のことを話し、お互いが元気でいることを喜んで別れた。
 
部隊からの連絡は何もない。心配なので、私たちが警備していた大正橋まで自転車で出てみた。街は焼け野原で、己斐の山まで丸見えだった。部隊関係の人は誰もいない。仕方がないので帰ることにし、家に向かっている途中で、また顔と足をケガした四国直登君に会ったので声をかけた。
 
「オーイ、どうしたんヤー。まだ家に帰っとらんのカー」
「ホーヨ、足が痛うてノー。夕べは橋のたもとで野宿したのヨー」
「ホーカー、苦労したノー。よし、ワシが送ったロー」
「ホーカー、済まんノー。ホイジャー、頼む」
と言って彼は私の自転車の後ろに乗った。丸二日、焼け野原をさまよっていて、相当疲れているようだった。
「お前は元気でエーノー」
と彼はうらやんだ。
「お陰でノー、腰と手首をやられたくらいで、まあ無傷ジャッタヨー」
と話しながら、大河町の彼の家まで送った。彼の家も爆風で屋根が落ち、かなり壊れていた。四国君ともこれが最後になった。
 
夕方、被災者に、むすび、タクワン、缶詰の配給があった。軍が保管していたものだろうか、久しぶりの混じり気のない銀飯のうまかったこと。それに缶詰は、高さが十五センチくらいもあり、中は肉、豆、昆布が三層に分かれ甘く煮付けてある。大変豪華なごちそうだった。
 
ところが、就寝前、体がとてもかゆくなった。見ると体中が、蚊のくった跡のように赤くふくれている。ジンマシンだった。かゆくて寝付きが悪かった。翌日聞けば、他の人も同じようで、原因は缶詰らしいという。数日間、同じ物が配給になった。ひどい食糧不足の時代でもあり、普段食べたことのない甘い缶詰である。食べればかゆくなると分かっていても食べずにはいられなかった。
 
八日ごろから、比治山の上で死体を焼く悪臭がし始め、それは数日間続いた。とても見に行く気などしない。毎日父と家の修築、整理をした。水道が出ないので、消火栓から水を汲んで運んだ。片道百メートルはあり、何十杯もの風呂の水汲みなどは特につらくていやだった。
 
また毎日合間をみては、親戚、友人、近所の人探しに、焼け野原や救護所の学校などを見てまわった。毎日、ケガ人が大勢死んでいく。全身ヤケドをしたところにハエが止まり、蛆虫が這い、悪臭を放つ。見るも無残である。医者たちが必死に治療しようとしても、医薬品は不足し、満足な治療は望むべくもない。
 
その頃近所では、元気で帰ったのに、原因が分からないまま死んでいく人が出始めた。「ピカドンにあうと、元気そうでも死ぬるゲナデー」という噂が流れた。まさか当時は放射能の影響とは知る由もなかった。
 
八月一五日、疎開の荷物のことで、両親と一緒に可部に住む母の姉、佐伯のおばさんの家に行った。お昼を食べていた正午十二時、玉音放送を聞き終戦を知った。そのとき、ふと気がつくと、私が食べている茶碗のなかに短い髪の毛が落ちている。頭を撫でるとバラバラ髪が抜け落ちる。当時、男はみな坊主頭なのだが、坊主頭でも、気にならないというわけにはいかない。帰宅後、母に言うと、禿頭病(円形脱毛症)だと言う。オキシフルで毎日消毒してもらったが、一向に良くならない。それどころか、しだいに体がだるく、何もする気が無くなってしまった。毎日家でゴロゴロしているので、「横着者が」と父に叱られた。
 
八月二六日、兄が郡山から復員してきた。うれしかった。八月二八日、父に、兄と二人で疎開の荷物を取りにいくように言われた。翌朝早く、自転車に付けたリヤカーで大林に向けて出発した。大林は可部の太田川橋の向かいで、片道二〇キロメートルはあったと思う。途中デコボコの砂利道で苦労した。体調もよくなかった。昼食を食べ、タンスなどの荷物をリヤカーに積んでの帰り道、体調はますます悪く、今にも倒れそうになったが、兄に励まされながら何とか頑張った。のどが渇いてたまらない。
 
「水が飲みたいんジャガノー」
と兄に言うと、まわりは畑ばかりで、農家は近くにないので、
「水が飲みたい言うてもないデー。困ったノー」
と言いながら兄は、畑に入り夏大根を抜いてきて、
「オーイ、これをかじれ」
と言った。少しからかったが、のどをうるおしてくれうまかった。
 
苦心の末、夕方やっと家にたどり着けた。張り詰めていた気持ちがなえ、グッタリと寝ついてしまった。その夜から発熱、下痢。熱は三九度五分にまでなった。
 
高熱と下痢が続き、大変苦しかった。頭の毛は全部抜け、歯茎からは出血、体には赤紫の斑点が出ていた。病院に行きたくても病院はない。余りに苦しいので、もう死んでもいいとさえ思った。両親も必死の看病をしてくれたが、なす術もなく、気をやんだことだろう。
 
九月一日の夕方、母が「このままにして置くと死んでしまう」と言って、翌日、可部の病院までいくことになった。
 
九月二日、私はもう歩く気力もないので、兄にリヤカーの上に寝かせてもらい、真夏の太陽の照りつける焼け野原を、母と兄に引かれて可部線に乗るため横川駅まで行った。汽車に乗るには、切符は一人一枚で、並ばないと買えない。私は並ぶことが出来ず、兄は私に付きっきりである。母が駅員と押し問答していると、親切な人が切符を一枚譲ってくれたという。ありがたいことである。兄は心配そうな面持ちで、
 
「元気を出すんデー。死んだらダメデー」
と言い、リヤカーを引きながら帰って行った。母と二人でようやく可部に着き、さっそくおば夫婦と相談して町医者に診てもらうことにした。
 
ここにもたくさんの負傷者がいた。私の番がきたので、服を脱ぎ裸になると、見るやいなや医者は診察も手当てもしないで言うのである。
 
「この人はもうダメです。死なれます。このような赤紫の斑点が出ると…」
 
本人を目の前にして全くの死の宣告であった。たとえ医薬品が不足していようとも、こんな医者の態度は許せないのではないかと思う。母は怒り、「絶対、死なさん」と言って励ましてくれた。母はこの戦争で長男を亡くしている。その無念さがその言葉につながったのではないかと思う。別の病院を探すことにしておばさんの家に帰った。本当にグッタリだった。
 
再び、親戚のみんなと相談し、今度は可部の肺病療養所、緑ヶ丘病院に行くことになった。途中、歩くのもつらく、倒れそうだった。また死の宣告があるのかと思いながら、やっとのことで病院に着いた。母が必死で頼み込み、何とか診察してもらい、直ちに入院と決定した。今度の先生はとても親切だった。前の医者とは雲泥の差である。
 
「ここは肺病(結核)の療養所です。君は肺病ではないし若いので、風通しのいい南寄りの一階の角部屋とします」
 と言われた。ありがたい気遣いだった。
 
さっそく病室に案内してもらい、ベッドに横たわり、まもなく検温。四〇度五分あった。ただちにリンゲル注射を天井につるし、木綿針のような太い注射針を右足太股に突き刺された。筋肉注射なので、看護婦さんが注射液がなくなるまで一時間あまり手でもむのである。意識が朦朧としていても、痛いことこのうえない。涙が出た。そのほかカルシウムなど二本注射をした。当時医薬品不足のなか、それだけの治療をしてもらえることは大変幸せであった。氷も水枕もウチワもない。母はタオルを水で浸し私の額の上に置き、鍋のフタであおぎながら、お経を唱え、必死に看病してくれた。
 
夕方、院長先生が、同じように被災した五〇歳すぎの女の人を連れてきて、今夜一晩だけ同室させてくれとのことで、母が承知した。その人は私のベッドの横下に寝た。私の病状と同じだった。先生の懸命の治療も空しく、苦しんだあげく、その夜とうとう亡くなった。ベッドの上でその様子を見ながら、私もいずれ、と思ったが、母の苦しみはそれ以上のものだったと思う。
 
先生の懸命な治療が毎日続いた。一日一本一週間打つ予定のリンゲル注射は、あまりの痛さで最後の一本はやめてもらった。
 
それでも、こうした治療のお陰で、入院後一週間目にしてようやく熱も下がり意識も戻った。
 
その頃のこと、母が、「ニュウドウ草(ドクダミ草)を煎じたケー飲みんサイ」と言った。臭いけれど我慢して飲んだ。毎日一升飲むのが日課になった。
 
少しずつ食欲が戻ったころ、京谷君と四国君の死を母から知らされた。ただただ残念だった。彼らもこの病院に来ていればと悔やまれた。
 
起き上がれるようになったころ、兄が病室の外で縞蛇を捕まえた。その場で皮をはいで蒲焼にし、「食べーヤー」と言う。気持ちが悪いのですりつぶして食べた。大変うまかった。父と兄は毎日食べ物を集めて運び込んでくれた。ひどい食糧不足のなか、手に入れるのに苦労したことだろう。高田郡まで行って梨を買ってきてくれたこともあった。
 
ある日、母が炊き飯(五目飯)を四合炊いた。三人で食事を始めようとしたとき、突然停電となり、その場は真っ暗になった。私たちはそれまで話をしていたのに急に無言になる。そのうちに電気が点いた。ところが釜のなかは空っぽ。兄と私でそのご飯を全部食べてしまったのである。母は自分は何も食べられなかったのに、「ア、全部食べたの」と言って笑っていた。なにより私がそれだけ食欲が出たことを喜んでくれたのだろう。
 
次第に、外に出て柿の木に登って実を取ったり、畑の芋を掘ったりする元気が出てきた。院長先生がそれを見て笑っていた。毎日の治療のかいあって、その頃から頭に産毛が生えてきた。とてもうれしかった。
 
院長先生が「良かった、良かった」と喜んで下さった矢先のこと、看護婦さんとふざけ合ってカルシウム注射をしてもらったところ、一本分丸ごと漏れてしまった。その夜は右腕が一晩中痛み、水で冷やす騒ぎ。院長は、腕が腐っては困ると言って大変心配した。私は悪いことをしたなー、と思ったが、看護婦さんも先生にひどく叱られたことだろう。幸いそれは大事には至らずにすんだ。
 
四〇数日間の入院生活だった。家族をはじめ多くの人達の献身的な看病により、私は一命をとりとめることができた。
 
ちまたでは『リンゴの唄』が聞こえ、バラックも建ちはじめ、かすかではあるが戦後復興の槌音が聞こえ始めていた。
 
あとがき
 
生死の境をさまよって、幸い一命は取り留めたものの、その後五〇年経つ今日まで、放射線影響研究所や広島原爆被爆者福祉センターで半年か一年に一回は必ず検査を受けていた。新潟に転居後は、新潟大学医学部附属病院で同様に検査を受けている。
 
いつ体のなかで原爆による後遺症が爆発し、重大な病気になるのか、また、被爆二世にも影響があるのか等々、日々負い目を抱えての生活が続いている。
 
このような肉体ばかりでなく、精神をも何十年にも渡って責めさいなむ核兵器は一刻も早く全廃し、全世界の人々が平和に暮らせる時代が来ることを切に望むばかりである。
 
出典
一九九五年七月七日
新潟県原爆被害者の会(新友会)発行
鳩―夏でした。目を閉じると、兄が笑ってた。 から
  

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