原爆投下時にいた場所と状況
広島市舟入川口町
桐原容器工業所 軍需工場で火薬ダル製造 工場の下敷となり足に機械シャフト落下
一 ぜひ伝えおきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
学徒動員先の工場で被爆(旧制中学三年生、十四才)空の色がどんよりと曇って橙色がかって濁っていました。これは一発の原爆の為です。不気味な空の色でした。そして、午後からはこの空から黒い雨が降ってきました。ほんとうに不思議な空模様でした。
下敷になった工場の建物の中から何とか這い出して爆心地のわが家へと急ぎました。途中の惨状はとてもこの世のものと思われないもので、服はちぎれて髪はバラバラに乱れ、焼けちゞれ、全身には赤泥をぶちつけたようで手足の皮がだらりとむけて垂れさがり、それがまるでゆうれいのように放心、歩いているその姿は一生忘れる事ができない。兄は家で直爆死、妹も学童授業先で、そして母も、何もかも…。これで孤児となり、苦難の道がはじまりました。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
父は海軍々人で戦死。(昭和十六年八月支那事変)そして母は原爆死と両親をなくして全くの孤児となり、伯父の家に預けられ多勢の従兄弟達に囲れて、あの戦后の混乱、食糧難の時代を過してきた。自分の子供達を育てるのでさえ大変なときに、私まで迷惑をかけては申訳けないと自覚し、あの焼野原の広島で親が元気でいてくれさえすれば…と歯をくいしばって頑張ってきました。誰も頼る人もなければ助けてくれる人もいない孤児。
今、当時をふり返ると感無量です。あのいやな原爆の地、広島での悲しい想出をすべて忘れるため、思出したくない為に生れ故郷を後にして上京し、とにかく忘れる事にひたすら専念しました。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
五十年前の夏の朝、妹は七才で死んだ。殺されたのだ。灰になってしまった。そのまゝ七つの女の子、いつまでたっても七才です。あの惨劇を自ら体験したものとして、原爆の恐しさ、あの日の事を語り伝える事が風化を防ぎ、平和と人命の尊厳を守る事です。
核兵器の使用は人類の滅亡を意味します。保有も決して許してはいけない。あるから使用する。なければ使えない。
ノーモア広島、長崎を叫びつゞけていきます
核のない平和の世の中であることを切望します。 |