原爆投下時にいた場所と状況
広島市宇品町
宇品暁部隊の営庭に居る
その時新兵器とみる物が市内上空に上り忽ち黒き物ザーザと音がきこへ伏せたと云ふ。すぐ頭を上げ見ると早真赤な火の手が全市に広がりその後軍の命令にて救護に当ったと故、夫に聞きました。
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
被爆者夫は本年(平成六年)三月他界致しましたので妻私が当時知る限りの事を説明させて頂きます。今を去る昭和十八年の十月夫は召集され浜松の高射砲隊に入隊、数ヶ月の訓練を受けその後広島市宇品暁部隊船舶高射砲隊に入られその後はサイパン、パラオ又上海等に征きその帰り魚雷にやられ半分の方は沈み残る半分に主人はゐて海上に浮く事十五時間漸く助け船にのり一旦船は宇品に帰る。幾多の戦友を亡くされたと云ふ。宇品の営庭に居た時新兵器らしき物を見て伏せすぐ起上り胸に手を当てたら熱かったと云ふ。そして防空壕に入る。隊長の命令の許出て来ると空は黒い雨がザーザーとの音。地上は真赤な火の手が炎上。その後軍隊は救護に当り無残な現状に尽きぬ思い色々整理して復員したのが二十年九月の下旬でした。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
亡夫は当時、武蔵野市中島飛行機に勤務し応召してより私共母子三人は社宅に居り主人が無事帰る様にと念じその後毎日防空壕に出入りの生活が続く。全く当時は二十八歳の若さ。然し夢も希望もない日、只し日本は必らず勝と云ふ唄い文句。遂に社宅は全部B29に破壊され住む状態でなく一応故郷に帰り実家にも大変お世話をかけました。田舎の甲府盆地も焼い弾B29にやられ家族全員で恐ろしい光影をみ、全くこれでは勝目もないと思いましたが口には出せませんでした。八月十五日正午天皇陛下の玉音放送が有りみなひざま付聞き「亡父」ア、もう戦争は終ったと小声で言ひました。然し主人の安ぴに思はれて成ませんでした。二人の男の子をかゝへての私でした。
病名は肺炎と肋骨癒着、腰髄炎。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
応々終戦の年の九月の始め案ずる夫の一通の葉書が届きました。本当に胸の重荷が下る気持。父母皆共々喜び安どしました。そして九月の下旬に復員しましたが主人は多くは語りませんでした。それは今後の生活の事、何時迄実家の世話にもなれず途方にくれましたが主人の実家が下田の在に有りましたので一と先そちらに行く。職も家もない自分達は又お世話になりましたが幸いにも金鉱山が近くに有り人々のお世話にて入社出来ました。一時安どしたものゝ当時会社は三交替で増産増産でそれに働く主人は風邪が引金で被爆の為か肺の病となり一年半入院を致しそんな中で会社は何んの理由か閉山となり体の弱い主人は又途方にくれる有様。そんな時旧友人から葉書が届き上京する事に成り六十歳の定年迄弱体ながらもお勤めが出来ました。その後、六十九歳頃東友会の被爆者の会又現在多摩の会長様でも有る梅迫様には大変お世話になりましてこの紙面をお借りして厚く御礼申し上げます。二度と戦争をしてはいけない世界平和を祈ります。 以上 |