北満より五ヶ月の娘(洋子)を連れて帰国。
広島に義兄が暁部隊に居りましたのでそれを尋ねて二葉の里に落ちつきましたが原爆の一週間前に可部に疎開致しました。
昭和二十年八月六日朝よちよち歩きの洋子と食事中、飛行機の音と共にマグネシューム写真の目も眩む様な光と鼓膜が破ける様な音に思わず子を小脇に抱えて立ち上り空を見ると落下傘がフワフワと飛んで行くのが見えました。皆はあれが爆発すると云って反対の方へ逃げました。後を振り返ると真黒い雲がもくもくと茸雲となった上に真赤な大きい火の玉がのっかっていました。祇園のガスタンクに爆弾が落ちたのだらうと話し合った事でした。
夕方下の道から市内より帰って来る人達が広島市内は骨組丈になった電車の中で真黒に焦げた人達が吊皮につかまったまゝの姿で死んでいると云う事でした。
私も主人の妹夫婦の事や義兄夫婦の事が心配になり身の廻り品と食物(お米野菜等)を持って洋子を背負ひ広島に探しに参りました。
今の記憶では電車は祇園迄しか行かなかったと思ひます。途中馬車やトラックに乗せてもらい後はひたすら歩いて横川、寺町を通り相生橋の近くの輜重隊に妹の主人を訪ねました。道には死んだ人が重なり合っていて良く歩けません。筵のかゝっているのもありました。私はもしやと筵をあげて見ました。そこには真黒になった顔の後も前も分らない人達に声も出ませんでした。太田川の河原には牛か馬か判別のつきかねる位に焼けて骨丈がころがっていました。川の面は見えない位二倍に膨れあがった人で溢れ浮んでいました。
何処をどう歩いたのか見渡す限りの焼のが原を彷徨い歩きました。途中道で休んで居ますと兵隊さんが点呼をとっていました。集まった兵隊さんは殆んどの人が負傷をしていて虚ろな目をしていました。上官が「まだまだ戦争が続くが後に続いて呉れるか?」との問に誰も答えませんでした。私はそれを見てもう日本も駄目だと思ひました。
唯々見渡す限り焼け野が原でその上に黒こげになった人がふらふらと歩いていたり、死人が折重なっているこんな光景が続き余りにショックが強く何処をどう歩いたのかはっきりと思ひ出せません。
妹の主人の部隊なら分るだらうとそこを頼りに行きました。(西練兵場の相生橋寄りの方だったのではないかと思ひます)。
本人には会えませんでしたが部下の方に持参したものを言伝てしてふと見ると骨組丈のドームが無気味に立っています。ふらふらと虚ろに歩いている人は衣類がぼろぼろで手の皮はずるりと剥けて手首から下にすべり落ちています。生地獄です。ケロイドには蠅が卵を産みつけて蛆になりびっしりと目を覆いたくなる思ひでした。その間にも道に倒れた人が「水、水」と弱々しい声で云っては倒れしているのです。
水道が毀れて水が流れているのを掬って飲ませましたが亡くなりました。
私は市内を歩き廻る中に五寸釘を踏み抜いて血で固まりどうしても靴を脱がしてあげられませんでした。ガラスの破片で顔が分らない様になって目の見えない人、まだまだ色々な人がよろけながら歩いているのに出会いました。夜道を歩いて平良村まで行きました。
その後私は赤痢の様な下痢が続き苦しみました。その後も道で倒れたり電車に乗っていて気分が悪くなって車掌室で休ませて貰ったりしました。娘も二年後の検査で膵臓が肥大しているが被爆した為だらうと云われました。
可部に戻ってから三ヶ月位もっとだったかもしれません。人を焼く煙と匂ひが絶え間なく続きどれ位の人を焼いたのか想像もつきません。恐ろしい事です。
こんな事があっていゝのでしょうか。絶体にどんな理由があっても世界に興ってはいけないと原爆以来一日たりとも忘れないです。 |