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佐和子 嘉子(昭和20年8月6日原爆死) 
味埜 稔(みの みのる) 
性別 男性  被爆時年齢 48歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1972年 
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
当時自分は軍の召集で千葉の隊で東京湾防衛部隊に編成されて神奈川県平塚市で陣地構築に従事して居た。
 
広島の自宅では登喜子は宇品の暁部隊に徴用され経理部に勤めて居り嘉子は学徒動員で蟹屋町の旧大和紡か日清紡の工場で爆弾製造の夜勤をして居り朝七時過ぎ交代で帰宅したので朝食後母と一緒に高須の畑(現在の宅地)へ野菜を取りに行く為め八丁堀福屋前の電停で電車を待って居た時(八時二〇分)原爆投下により被災し直ちに群集と共に的場町に出て東練兵場(現在の光町)に避難したらしい。夜になり尾長町の寺(太田豊さんの上)の境内の松林に避難して夜を明し配給の握飯で数日を過したと聞いている。之れは当時八丁堀隣の吉田病院長のお嬢さんが県の救護係に居り現場で会ったと言ふので後日訪れて聞いた話である。当時東練兵場に避難した人数は一万八千人で翌日は数千人は死んだらしい。自分は広島爆撃後の発表が無いので八月九日夜東京を立ち一〇日夜一二時に広島へやっと着いたが焼野ケ原で驚いた。暗夜の市内を歩いて到る所に腐爛した死体から出る燐の燃える青い焔が無数に散在し正に地獄の様相を思はせた。そして何とも云へぬ臭気が市中に充満している。
 
吉田さんのお嬢さんの話では佐和子は全身火傷を受け腫れて居て声で判断する様に様相が変り嘉子はそう迄は無かったと云って居た。佐和子は確か一〇日頃死亡したと白島の河野さんから聞いた。
 
自分は一一日は市内及び周辺の負傷者収容所を次々と探し廻ったが判らぬ。登喜子広司は健在と防空壕に書いてあったが佐和子嘉子の名が無いので尚ほ探しても判らぬので古江で聞いたら登喜子広司は当時大学に在学して居た石津さんが玉島に連れて帰ったと云ふので当時の様子を聞きに一三日玉島へ行き登喜子に会ったが当日母の服装と自分の見た死体の服装が一致せぬ。一四日広司は岡山大学病院に入院して居るので行き一五日広島へ帰る汽車の中で天皇陛下より降伏の詔書を聞いた。広島ではまだB29が何度も来て居た。
 
広島に帰り隣家の河野さんが牛田の丹土区に居ると登喜子の話で聞いたので行き尋ねた所練兵場で会ったと聞き又吉田さんのお嬢さんにも会ったと聞き早速練兵場に行ったら呉海軍の救護所のあった所の掲示板の張紙に佐和子、嘉子共死亡の線引がしてあった。それを見ると嘉子は一四日死亡した様であった。直ちに火葬者の骨を見て歩き一目で嘉子の骨は白金の入歯で見当が付いたので骨を拾った。自分は一一日十二日共広島で探したのだからまだ生きて居たので定めし一人で苦しみ寂しい思いをした事と可愛相でならない。
 
佐和子は早く死んだので骨を探したが入歯身長より判断し似た骨を拾ふより外方法は無かった。誠に残念に思ふ。

何としても日頃人道を口にする米軍の非戦闘員に対する無差別な原爆使用は以っての外の暴挙であり弁解の余地はない。
 
後世永久に其の罪は人類史上消えぬ事であらう。 

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