昭和二十年八月六日、午前八時十五分、広島市相生橋上空約五百米にて「原子爆弾・炸裂」
当時私は旧制中学四年生でした。そして学徒動員で南観音町の三菱重工業広島製作所へ動員されていました。原子爆弾炸裂後約一時間して、自宅へ帰るようにとの命令で解散致しました。工場を一歩出て、市の中心に近づけば近づく程被害が大きく、何が起きたのか全々理解することが出来ません。
或る被害者の親子の二人(お父さんと女のお子さんでした)に出会いました。
「もしもーし、そこの学生さーん、この子を助けて下さーい」
ふと見るともう殆ど意識は無いようでした。お父さんは一生懸命でした。
「この辺の避難場所はどこですか」
当時各町内では、それぞれ避難場所が定められていました。
「己斐小学校です」
私達は四人グループで行動をとっていました。全員自分の家とは反対方向です。しかしそんなことは云っていられません。とに角己斐小学校へと急ぎました。しかしそこで目にした光景は目をおおいたくなる程でした。殆ど身動きの出来ない人達が、水を求めてポンプのそばで山のように倒れているのです。思わず身がすくんでしまいました。
医師にみていたゞくのに長い列が出来ていました。一刻も急ぐのに。その子供さんのお父さんは私達に気をつかってか、
「もう私一人で大丈夫、ありがとう、先を急いで下さい」私達は気にかゝりながら、その親子二人に別れを告げました。
途中「黒い雨」にあいながら、そしていくつもの悲惨な光景を目にしながら、やっとの思いで家にたどり着いたのは、夕方の五時頃だったでしょうか。しかし家族に会うことは出来ませんでした。
ようやく明くる七日昼前、家族の一部に会うことが出来ました。母一人、当時二才の博士、五才の博子、小学校一年生の武男を連れ、避難場所の矢口(現在高陽町)から帰って来ました。しかしいる筈のもう一人がいません。
「お母さん、芳男は………」
当時同じく五年生でした。集団疎開に行かず学校へ通っていました。母は一瞬立止まり、絶句してしまいました。不明の芳男を気づかう不安感と、私の生存を確認した安心感とが心の奥深くで交錯し、複雑な気持だったのでしょう。やゝあって
「段原小学校……、段原小学校……。」
大きな声で叫びました。学校と家は目と鼻の先(現在東消防署の真正面)すぐとんで行きました。当然のことながら焼野原です。「芳男の教室はこの辺の二階じゃった。こゝじゃ、こゝじゃ。芳男……、芳男……。」
学校は完全に焼野原、猫の子一匹、人の気配すらありません。それでも母は一生懸命名前を呼び続けるのです。
次の日もそうでした。そして来る日も、来る日も、同じことが繰り返えされていくのです。ふと気がつくと、それはきまって朝八時過ぎのことでした。
一年生の武男の教室は一階でした。直後爆風によって、校舎の二階は完全に倒れ、一階は傾きながらも倒れずにいたようです。これが幸いして一階の武男は無事避難することが出来たようです。
しばらくして、学校で犠牲になった児童の合同慰霊祭をしていたゞきました。校内で見つかったお骨を全て集め、それを犠牲者の数で分けられ、その一人分をいたゞきました。それでも母は、毎日学校へ通い続けるのです。
そうした或る日
「僕、あの日、山崎君と一緒じゃった。」
という子(仮にM君とします)が私達家族の前に現われたのです。「まだどこかで生きている」と信じ込んでいる私達にとっては、まるで「地獄で仏」のようでした。
あの日警戒警報が解除されたので、芳男は一年生の武男を連れて学校へ行きました。武男の教室は一階。そして芳男は……、数分後に、この階は爆風で押しつぶされてしまうであろうとは、夢にも思わず、あの二階の教室へといそぐのです。そこでM君に会ったようです。どちらともなく、「まだ早いけー運動場へ遊びに行こうやー」
学用品を机にしまって、二人は、教室から廊下に出ようとした瞬間。
ピカー!
咄嗟に異常に気がついたのでしょう。思わず二人は目と耳をおさえて伏せたそうです。やゝあって
ドーン! ガラガラ! ゴロゴロ!
二階が倒れてあたり一面まっ暗。いろんな破片が落ち、二人は校舎の下敷になっていたそうです。どれ程の時間だったのでしょうか、息を凝らしていると、すうーっと前方一ヶ所に明るい所が見えてきたそうです。もう一目散、そこへ向って一生懸命這い出し、ようやく外へ出られたそうです。
「その時、芳男は?一緒じゃあなかったの?」
「目と耳をおさえて伏せたまでは覚えとったが、あとは何にもわからん。無我夢中で逃げだし、気がついたら僕一人じゃった。」
芳男の消息はそこでばったり……。わらをもつかみたい気持、いろいろ聞いてもそれ以上何もわかりませんでした。
隣りにいた山崎君が死んで、隣りにいた僕が助かった。死んだ者に対して申しわけない。そんな表情がはっきり現われていて、M君には可哀そうなことをしたと、今でもその時の表情を忘れることが出来ません。
やがて崩れ落ちた校舎は、真っ赤な炎と化して燃え上っていくのです。多分大きな材木と材木にはさまって、身動きがとれなかったのでしょう。理科室がどこにあったか知りませんが、そこから燃え始めたようです。だんだんと炎が芳男のいる教室の方へ近づいてきます。
やがて焼け死んでいくのです。
どうか焼け死ぬまでに「即死」していてほしい。
煙がまわって先に「窒息死」していてほしい。
家族の強い願いでした。生きたまゝ、意識のあるまゝ、「焼け死んで」いく。こんな惨酷なことがあっていゝのでしょうか。
M君が避難したあと、芳男は頭を強く打って記憶を喪失しながらも、避難することができ、どこかをさまよっているのではないか、家族のかすかな願いでした。
そうした或る日
「お母さーん、芳男が生きとったよ!芳男と話をしたよ……」
と、みんなに無我夢中で話す私でした。しかしそれは、つい先程見たはかない夢でした。
こうした「夢」を後数年間、時々見続けるのでした。
平成元年六月十日
|