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原 明子(ふじわら あきこ) 
性別 女性  被爆時年齢 18歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2014年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
 昭和二年卯年生まれの姉郁子は五人兄弟の中で育ちました。神石郡小畠村(今の神石高原町)祖父母、父母、兄弟と大家族の中で育ちました。小さい頃から戦争の中で育ち兄は兵隊にとられ祖父母を中心に農家で田畑を耕し山仕事を手伝い…。
 
父は明治二十七年生まれの長男。教員として郡内国民学校に努め昭和二十六年まで勤務を続けました。戦争も激しくなり何か国の為にお役に立てることは…と姉は今の油木高校卒業後広島日赤病院に甲種看護婦として志望、日赤の養成所に入りました。戦争も激しくなったこどもの頃を思い出すことはいきなり山の上から赤い練習機がガラガラと頭上を飛んで行く。でもびっくりはしてもこわいとは思わず子どもながらきん張感はこみあげて来ました。頑んばらなくちゃあー欲しがりません勝つまではー、と一筋に生きた幼少時でした。
 
とある日、父と母の話を耳にしたことがある。「自分で行けばよい。」父の声…「元気な私が病気だと電報することは出来ません。」母のことばも聞こえてきました。それは…姉郁子が「みんなお母さんが悪いといって家から申し出があり次々と帰郷していく。私にも『母危篤』の電報を入れて欲しい。」家に帰り度いと手紙を受け取ったことでした。
 
でも母の言葉を父は受け入れようとせず「そんなうそを云うのはひきょう者。この非常時に…」と言い張るのです。
 
大東亜戦争の詔勅を府中地方事ム所まで受けに行く。(学校の儀式用に納められるもの)白い手袋に白い布を首にかけ体の前方に捧げもって運ぶ。バスの中は勿論バスから降りて歩く道もずっと捧げもって歩いた父の姿が私の頭から離れません。そんな時勢である限り何がいつわりなど言えましょう。
 
母の願いは聞き入れられず…。(母の心中察するに余りあり)
 
二十年の八月当時田頭の福万校長さんから(軍人さん)連絡があり広島に大変なことが起きた。自分は広島に行って来た。「お嬢さんはピカに合って大ケガ…。でも一般人は広島には入れない。入れるようになったら連絡を入れます…」その報を受けた母は当時父木野国民学校に勤めていた父のところへ私を使いに出しました。その日学校林の仕事をしに行っていた場所を私は知っていました。それは出征兵士を見送り、しばらく待って戦死者の遺骨を迎える梨の木峠(当時一日一回のバスの通る路)家から二山も越え急な坂道でなくても二キロ米は充分ある道、一生けんめい走りました。父は他の先生と一緒に木を運んでいたように思う。私は父に話すとそのまゝ山道を走って帰った。母は静かに落ちつこうとしていた…。戦中の女だったのだろう。
 
黙って自分に言い聞かせて過ごしていた…。こどものわたしにもよくわかった。
 
母は祖父を助け、兄は中支へ戦争に―。何の連絡もなく無事を祈る日々。食器戸棚の中に蔭膳を組んで朝晩、祈る姿を思い出します。
 
この年の八月芦田川又その支流あたり大水害が起き田は流され山崩れ道路も川も流され橋も殆どなくなりました。
 
私は父につれられて広島まで行きました。乗り物もなく夜の明けぬ内に家を出、父木野を越え川の石を踏みながら新市の駅まで歩いた。肩には手造りの大きなリュックを負ってギューギュー詰めの電車にやっと乗って…。福山駅もやっと乗れた―。
 
広島駅のプラットに降りた時、ホームには何もない折れかゝった鉄骨だけがくずれかかり…。足元には死体がごろごろと…むしろをおおいかぶせて、山のように―。橋を這い渡り一面の焼け野原におどろき―。遥かむこうまで建て物はなくあちこち煙が上がってそこそこに死体が寄せてあった。こわれた水道から水がちょろちょろ、唯それだけでした。
 
駅から焼け跡をふみ越え千田町日赤まで。(文理大と日赤は残っていました)
 
姉は三階の窓際で被爆。下じきになり左半身(左眼、左手、左足)つぶされました。
 
原爆二号とされました。
 
しばらく治療を続けましたが薬もなく消毒も思うように行かず左ひざ(関節)にウジが湧いて傷が治らない、左眼もどうにもならない、本当に苦しいことでした。
 
もう一人の方(同室ベット)男性の方、背を上にしたまゝ全く動けない、言葉も聞けない、背中じゅう一面に焼けたゞれ、目をおおいたくなるような苦しみそのものでした。病院に居ても何も出来ない、連れて帰ることも出来ない、それだけは私にもわかっていた。
 
唯、「ABCCへ行き度くない。」その言葉を度々きいていました。当時の私には何のことか分かりません。
 
その頃は母親がつきっきりで居てやりました。
 
昭和二十五年頃家に帰り半身不自由乍ら保育所に出たこともありました。のち国民健康保険制度が出来、その課の仕事に不自由な体でたずさわりました。
 
お世話になった多くの方々のおかげで本人も家族も助けられて過すことが出来ました。
 
姉は同僚の方を名呼びしていました。(定められていたようです)福山の方、内海さん、池田さん、この方のことを「内海、池田」と呼んでいました。私の両親は実はこの二方のすゝめで原爆手帳の手続等面倒を見て下さり交付して頂くことが出来たのです。
 
姉の死後、内海さん、池田さんとも音信が絶えどうなさっておられることか、時々思い出してもどうにも出来ず今日まで過ぎてしまいました。
 
お世話になった多くの方にどうにも出来ず申し訳けない思いで一ぱいです。
 
今(私のこと)八十四才です。もっと話しておけばよかったと思いながら自分の生きることに懸命でした。
 
父母も亡くなり、兄は今九十二才、施設でお世話になっています。妹、弟たちも福山、三原へと離ればなれ、今、この機会にと思って見学の下見に伺った息子のすすめで筆を取りました。
 
思い出すまゝのことで読み苦しいでしょうがお許し下さい。私の胸中が軽くなったような思いです。
 
有りがとうございました。
 
いつまでも平和な世界であることを念じつつ……。かしこ。
 
藤原明子
 
平成二十六年十二月八日


  

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