申請の遅れた理由
被爆手帳は直爆を受けた人、二週間以内に爆心地に入った者だけが個々の状況を報告し申請していたゞけるものと聞いておりました。先日同窓会に出席し被爆患者の救護にたづさわった者にも該当することを聞きました。
被爆投下後八月二九日に宇品分院に救護班の要員として勤務致しました。平成七年九月頃より貧血、腰痛次第に年と共に坐骨神経痛で治療していますが次第に両下肢のしびれが激しくなり歩行困難も出てきて身体的にも不安があり内出血、よろしく御審査の程お願い申します。
八月三一日より被爆患者の看ゴ
八月二五日高水分院閉鎖され班員二一名八月三一日宇品分院へ転属
広島県広島市宇品町、わかりません民間の人軍関係の人
八月三一日~九月二一日、休日はなく勤務
日本赤十字社岡山支部隊に召集され広島第一陸軍病院で宣誓後、軍属とて、看ゴ業務の命令は婦長□□□□□姉、現在解散後は全く交流ありません。
昭和二十年七月三一日日赤岡山支部召集で第八六三救護班要員となり昭和二十年八月一日~五日迄広島第一陸軍病院へ派遣となり八月五日午後四時過ぎの列車で山口県熊毛郡高水分院での看ゴに当る。午後一〇時頃山の上の中学校が病舎となり患者の看護に当る。
翌朝六日村に一台しかないラジオを聞いた衛生兵の方より広島に「ピカドン」が落下され大へんな事を知りました。
終戦後高水分院閉鎖となり指示により八月二九日班員は全員宇品分院に転属となり被爆患者の看ゴに従事す。
高水分院は軽症が殆どで食事の世話は農家の人に手伝ってもらい後片付けは下の方の小川迄患者と共に洗いに行きました。被爆された人達、民間の方達が来られるので外来診療が始まり火傷の手当、ガラスの破片の除去を手伝い八月十五日の終戦を知らされ傷病兵の興奮が大きかった事を今も走馬灯の様に思い出されます。
その後分院は閉鎖され軽患者だったので故里へ帰って行きました。八月三一日全員宇品分院へ転属となる。復員する人達に混じって列車のりついでトラックに便乗し徒歩で宇品に入ったと思います。列車内は復員兵で一杯で窓から入らなければならず車内なんて身動きも出来ない状態でした。炎天下の中一望して焼野原、ところどころ大きな穴があり爆弾落下のすさまじさには驚かされ言葉もありません。宇品分院は船舶練習場といふ所でした。
軍関係の人ばかりではなく民間の方もおられるようで私達の宿舎は階段を上ったところの部屋を使用す。カーテンや毛布で仕切られ、のみや南京虫でなやまされ寝不足で水もあまりなくお風呂にも入れず。
担当病棟では毎日三~四人位の方が死亡され担架で一番奥の部屋に運びました。まだまだ戦時中の規則が残っており死後の手続するにも大へんでした。
古畳一枚が病床で着の身着のまゝで軍隊の下着で横臥される患者は体力の相違のためか病状の経過の早い遅いかのずれはあるだけで頭髪は枕の当る所は全部抜け鼻血は流れ空缶でうけ、体温の上昇で意識障害が出て(ブラブラと歩き)放尿す。血尿。衛生材料はなく治療の方法はなく見護るだけ。少し状態の軽い人は自分の死期を予測され無口でした。すべもなく次々と死亡されました。
御遺体は私達看ゴ婦により屍室に移動し毎夜の様に衛生兵の手により運動場で(ダビ)に付されました。
歩行可能の人一見外傷もなく元気そうにみえてもトイレから帰るとそのまゝ亡くなれる方もあり、耳、鼻の孔の中にはウジ虫がうようよとおり歯ぐきの血を止めてと訴える人、ハエをはらうことも出来ず、次第に身体は弱り亡くなられました。
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