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小川の畔で 
田村 育子(たむら やすこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
美しい鉢植の花有難うございました。長く楽しめます。気を使わず来て下さい。
 
手記涙が溢れて止みませんでした。昭和二〇年八月六日私は学校で図画の時間で先生がお手本を黒板に画かれて生徒の方へ振り向かれた時です。顔に光が当りハッとさせられ広島の方の窓ガラスがビリビリと鳴り異状な事に先生方も直ぐさま生徒を帰宅する指示を出された。
 
皆んなパニックになった。
 
家に帰ると母は仏壇を掃除していた。
 
父、祖父母、母方の祖母誰かが死んで帰る。不安でたまらなかった。負傷者がトラックに乗って逃げて来るのを見た。その後父は温品、福田経由して帰って来た。嬉しかった。隣の疎開者の父親も頭に包帯を巻いて帰宅された。
 
明る日祖父母は己斐の二男宅に居て無事が判明した。母方の祖母は、父の手によって鷹匠町の自宅跡から骨と蝦蟇口の金具を拾って持ち帰った。
 
一週間前の七月末日私は夏休みを利用して父に連れられて祖母宅に行き歯者へ連れて行ってもらい父が仕事を済ませて、夕方一緒に田舎へ帰った。祖母が高木でぜんざいを食べさせてあげるからと連れて行ってくれた。出て来たものは野菜の入ったお汁でした。糠団子を土産に買ってもらって祖母宅で貴重な砂糖を付けて食べた。砂糖だけが美味かった。その祖母が骨になって仏壇へ納められた。理不尽な事が恐怖であった。泣くのを見た事のない母が隣の負傷して帰って来られたお父さんが明る日に死亡され奥様と共に泣いているのを見て悲しかったのだろうと思った。父は何日か広島に行き行方不明の人を探す手伝をしておりました。
 
少しずつ疲れが出だし寝込む様になりました。一七日私達(母、兄二人弟一人と私)父は寝て留守番が祖母の葬式をするため末娘の住む己斐上町へ行って一泊して帰った。十日市で乗り替え電車を待っても広島駅行が来ないので歩いた。祖母の亡くなった所を見ながら皆んな無言だった。私は母の悲しみを知っていたので、母はその後一度も泣く事もなく、父がだんだん悪くなって行くので心配をしていた。まず声が出なくなり茶碗を箸で打ちその音で給事を私がしていた。髪の毛が抜け落ち歯ぐきから血が出る様になり、母も必死に看病をしており子供心にも恐怖でいっぱいでした。死が何時父の身に降り懸るかと。
 
毎夜、隣の家の離れ家へ疎開されておられた病院長さんが往診して下さって、何んとか八月は乗り切りました。
 
九月床に臥せていました。九月一七日台風で河川の氾濫があり、又大人達も大変になり、井戸の水が使われず山の湧き水を汲みに行く仕事が子供等でした。
 
道路の水が引き、小川の水を眺めていた所で初めて会って何所から来たの、広島、お互いに田舎ではない。私は少し嬉しかった。
 
貴女は泣かない我儘を言わず我慢強く心の優しい人だと不思議に想っており母親がおられないのに感心しており、でも八月六日の事を五〇年位経って聞く事が出来ました。
 
母親に泣きすがる事も出来ず一生分の涙を流してしまったのですね。良く頑張って神を信じ今日有る事を感謝して暮してこられたのですね。どんな辛い出来事でも昭和二〇年以後何年か(私は田舎昭和一八年春から二八年暮まで)の苦楽があればこそ、正直に暮したのが正しかったと思います。人を思いやる心があるから貴女は立派にお孫さんの成長をそばから応援出来たのです。
 
良い老後を過ごしましょう。 

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