これは私の自分史の中の一節で、被爆編です。
今年もまた八月が来ました。
六日は広島・九日は長崎と四六回目の原爆の日が続きます。
四六回目ですよ。考えてみれば私も年をとったものです。
これまで誰にも話すことができず、じっと胸の中に閉じ込め、ひそかに記した自分史の中だけにしまいこんでいたものを、原爆の日を前にして今年こそ孫たちに残しておこうと拙いペンを執りました。
私が二十一才の八月七日から数日間の記録です。
ちなみに、私は当時、広島市内のある軍需工場の労務課統計係で働いていました。
水を入れたドラム缶二個とバケツを二、三個、近所から買ってきたばかりの薦(こも)も水に浸して、簡単な着替えなどと一緒にトラックに積み込んだ。
私も荷物と一緒に荷台に乗り込み、午前十一頃志和口分工場を出発。
二、三〇分位走ったころから、目を覆いたくなるような被爆者の姿がボツボツと目につくようになり、広島市内は想像以上の異常事態に陥っていることが予測された。
市内に近づくにつれ、その数は次第に増していった。
男女の区別さえつかない程に全身真黒。ボロボロにひきちぎれ、それでも体のあちこちにまとわりついている衣服らしきもの、火傷か怪我かもわからぬまま、一様に垂れ下がった黒いボロボロをひきずりつつ、ホコリやゴミにまみれ、半ば放心したように、ただ、フラフラと前を行く人の方向引かれるようについて行く。
この世のものとも思えぬ、生まれてはじめて見る異様な姿である。
このまま行けば次はわが身か?寒気に似たものが全身をかけめぐる。
日中の暑さに加えて前方は火の海。赤黒い炎と煙につつまれた市内からは、激しくはじける物音とともに、ゴゴーというか、ドドーンと響くというか、表現のしようのない地鳴りのような悪魔のうなり声が、黒い雪のように降ってくる灰と共に押し寄せてくる。
小谷氏(志和口分工場長)は一旦車を止めて車外へ出て、「山口さん!!これで行くか?・・・」と私の方を伺うように見上げる。
救護班長(私は看護婦資格を持っていたから)という重責を全身に担っている私としては、一分でも早く本社へ帰りたかった。「ハイッ・・・大丈夫です。行きます!!」「よし、・・身支度をしよう」
二人は防空ズキンをドラム缶の水に浸して、しっかりとかぶり直し薦(こも)にも充分の水をかけ、小谷氏はそれを二、三枚重ねて私の上にすっぽりとかぶせてくれた。
自分はバケツで頭から全身に何杯もの水をかぶり、「よし、・・・行くぞ、飛ばされないようにしっかり荷台につかまっていなさい。しばらくの辛抱だ」と車を飛ばした。何処をどう走ったのか、煙と熱風で息が詰まりそうになり、耐え難いばかりの熱気を身に感じたり、荷台からはね飛ばされそうな衝撃を受けたりを繰り返し、くり返ししながらそれでも小谷氏のおかげでやっと、吉島の軍の飛行場の近くまでたどり着いた。
「山口さん・・・着いたぞ!大丈夫か!!」「はい!大丈夫です。」
ここからは、車の入る道は無さそうだ。
二人は、それぞれに荷物をかつぎ、飛行場の土堤へ遭い上がって「アッ!」と驚いた。
わずか二百メートルばかり前方に、建ち並んでいた筈の幾棟もの工場が、影も形もないのだ。幸い火災だけは免れたらしい様子なのに、一体どこへ行ってしまったのか・・。半分は崩れかかっているものの、形でそれを知れる鉄筋三階建の事務所だけが、わずかに会社の位置を示してくれる。昨日まで自分がこの事務所内で仕事をしていたことが、遠い遠いむかしのことのように思えてくる。
ふるえる足もと、破れんばかりの心臓を押さえつけるようにして、二人は崩れた塀をのりこえ倒れた柱や梁をまたぎ、道なき道をたどりやっとのことで会社へたどり着いた。
屋上は吹っ飛び、ドアーやガラス窓などがメチャメチャに壊れた事務所の前に五、六人の人達が佇んでいる。「皆さん!〇〇会社の方ですか?」
小谷氏が大声をかけた。ふり向いた真黒い顔の一人が、恐いものでも見たように、異様な叫び声を発して二、三歩後へしりぞいた。が、次の瞬間、どちらからともなく全員が一勢に抱き合い、後はただ涙、涙であった。
労務課長、庶務課長、親友の明子さんとその上司、庶務課の男性事務員が二人。
全員真黒になって、目だけキョロキョロしている。
「ユーレイじゃぁないだろうなぁ・・・足はあるか?・・・ほんとうに・・・」と直接の上司である労務課長は涙を流して喜んでくれた。
「山口君は六日の朝六時の汽車で三次を発つことになっていただろう、広島駅到着が午前八時、ピカが落ちたのが八時一五分、かわいそうなことをしたと、今の今、話していたところだったんだ・・・本当にユーレイかと思ったぞ・・・」とみんなで喜んでくれた。少し落ちついたところで、小谷氏が「〇〇さん、あれを・」と言ってくれた。「あっ・・・そうだった」
私は今早朝家を出る時、母が梅干入りの焼むすびをどっさりつくってくれたのを必死でかついできたのだ。志和口分工場へついた時、小谷さんと一個ずつ食べ、本社で苦しい思いをしている人達に持って行こうと、大事に背負ってきたのを “ころり″と忘れていた。「みんな、母の手づくりの焼むすびです・・・どうぞ・・・」
昨日の朝から全員が何も食べていなかったらしく「うぉッ!・・」というような喚声をあげてみんな手づかみで食べた。ややあって、梅干しの種を口の中で宝物のようにシャブリながら「こんなおいしいむすびは生まれて初めてだ、お母さんに感謝するよ・・・」涙を浮かべて喜んでくれた。
小谷氏の報告を聞き、腹ごしらえも出来たところで労務課長が言った。
「二人も帰って来たことだし、みんな元気をだして頑張ろうじゃないか!!・・・」
「よし、・・・がんばろう!!・・・」
みんな立ち上って、それぞれの分擔(ぶんたん)を決めた。「山口さんは聾(ろう)学校の仮病室へ行ってくれ、庶務課長と私は総指揮に当たる。残りの者は全員食料倉庫の掘り出しにかかってくれ」労務課長の命で全員元気に仕事にとりかかった。
殆どの家が吹き飛んでしまったなかで、会社の隣にある聾(ろう)学校の講堂だけが、辛うじてその形をとどめ残されており、そこへ会社の人や、近所の人で重傷者ばかりを二十人近く収容してあるということだった。
私は仮病舎へ向かう前に会社の医務室へ急いだ。ガーゼや包帯材料、薬品等が少しでもほしかったのである。ところが、医務室は瓦礫に埋もれ、その位置さえ確認できない状態になっていた。仕方なく自分が常に携(たずさ)えている救急袋だけを持って、ともかく、聾学校の仮病室へと急いだ。
空が見える程に壊れた天井だけを残して、屋根も窓も講堂の床に、まるで黒い丸太でもころがすように、無造作に並べて寝かされた負傷者。
窓側には壁土や壊れた屋根瓦、ガラスの破片や木片などが堆(うずたか)くかき寄せられている。
死んだように、ただ、ころがされたままでいる人、うめき苦しんでいる人、その人達の間をドタドタと三、四人の男の人達が殺気立ち、どなり合いながら出入りしている。
「オィッ!・・外にまだ息のある人がおるで!・・・死んだ者と入れ替ええやぁ・・」
というような大声が遠慮なしに耳に飛び込んでくる。
髪の毛は焼けちじれて頭の皮膚にへばりつき、頭のてっぺんから足の先まで真黒になり火傷で腫れ上がった負傷者は、男女の区別さえつかない。
市内へ入る前、大勢の人に出会っているから、今更、驚きはしない。
しかし、医薬品も無ければ包帯材料もない。だが、何とかしなければならない。
今、私に出来ることといったら・・・瞬時の間にあれこれと必死に考えた。
・・・と・・・・ハッ!と一つのことが閃(ひらめ)いた。
「誰か私に手をかして下さい!・・・この方達を何とかしてあげたいのです。・・・お願いします。・・・」 私は出入りしている男の人達に叫んだ。
「おい!・・ねえちゃん、おまえ医者かぁ!・・・これで一体何ができる言うんならぁ!・・・エラゲに言うなやぁ!できるもんならワシ等がとうにやっとるわい!・・・・」と憎らしげに、小馬鹿にした口ぶりで、全く取り合ってもくれない。「よし・・それなら一人でやるまでだ」私はそとにとびだした。
そして、バケツをさがした。
当時は防火用として、どこの家でも十個や十五個は常に用意されていたものである。
形はくずれていても、使えそうなバケツはすぐ見つかった。
ひらめいたのは、先程、夢中でむすびを食べ、後から皆で大笑いして手を洗った、あの、道路の裂け目から湧き出していた、きれいな水溜りの場所である。
石でたたき、木片で掘り返し、必死の作業を続けているうちに、そこがちょうど水道管亀裂(きれつ)の場所であったらしく、思ったより多量の水が噴き出してきた。
水は充分に確保できたが、さて、布類は何もない。救急袋の中にガーゼの二、三十枚は入っているが、今場合そんなものではましゃくにあわない。・・・そうだ・・・〝窮すれば通ず″である。私は自分の木綿の着替えをとり出して適当な大きさに引きさいて行った。「娘さん、私が手伝うよ、何をすればいいかね」と初老の瘠(や)せておとなしそうな男の人が声をかけてくれた。「ありがとう・・お願いします。先ず、この布をしぼって、この方達の頭を冷やしてあげて下さい。それから、このガーゼをきれいな水で濡(ぬ)らして目、鼻、口等をそっと拭いてあげてください。」と頼み、私はガーゼ、ハサミ、ピンセットなどをとり出し、腫れ上がった皮膚にくい込んだ衣服の残りや、焼けただれ垂れ下がった皮膚、肌にささったガラスの破片や小石などを次々と取り除いていった。
「小父さん・・あそこの会社の門の前の道路に水が噴き出しているから、できるだけきれいな水を使ってあげて下さい」と私。
「ヨッシャ!わかったで!・・」という大きな声に振り向けば、先程の憎まれ口の男の人が、もうバケツを持って駆け出しているところだった。
何人目かのガラスの破片を抜き取っている時、その患者が弱々しい声で「山口さん・・・ありがとう」といった。私の名前を知っているこの人は・・・もしや、同じ事務所の人かもしれない。声で女性であることはわかるが、誰なのか、全く見当がつかない。「あなたは誰?」とうっかり咽まで出かかった言葉をぐっとのみ込んだ。
「ええ!大丈夫よ、すぐきれいにしてあげるからね」と務めて明るい調子で頭を冷やしてやるとかすかに顔の表情が緩んだように見えた。
「ねえちゃん・・・こがいなもんでも使えるかいのう!」と憎まれ口の人がユカタの切れっ片(はし)やカーテン地のような布をさがして来てくれた。
「ありがとう・・・お兄さん・・大助かりです・・・」「さっきは・・すまん・・ワシはテツ言うんじゃ!何でも手伝うけー言うてくれやー・・・」と黒い顔を汗まみれにして、不器用そうな大きな体をすこしかがめるようにして、頭をペコンと下げた。ロは悪いがこの人はいい人なんだ。自分で何もできないいらだちを私にぶっつけてきたのであろう。思わず涙が出そうになった。
テツさんはせっせと水をとりかえてきてくれる。そして、小父さんと力を合わせて、私がボロボロと取り除いた順にきれいにしてくれる。
「山口さん差し入れよ・・・どう!立派なもんでしょう。何とか食糧にはありつけたわよ」と明子さんがおこげまじりの麦飯のむすびを三人前と、二本のローソクとマッチを持ってきてくれた。「ありがとう・・明子さん・・・」
どうやら涙腺がゆるんでしまったらしく、言葉より先に涙の方が出てしまう。
時間の経つのも、お腹がすいたのも忘れてしまっていたが、気がつけばもう手もとがうす暗い。「大変だろうけど元気をだして頑張ってね・・私たちはみんな事務所の前にいるから、用があったら言ってね・・・」と明子さんは帰っていった。
三人はその場にすわりこんで無言でむすびを食べた。すすけた煙の匂いがした。
ローソクの明かりを頼りに一通りの手当てを終わったのは、もう真夜中に近い頃であったと思う。
「小父さん、テツさん助けていただいて本当にありがとう・・私一人では何もできないところでした・・本当にありがとう・・今夜はもう帰ってお休みください」
私は心からくり返しゝお礼を言った。
「あんたはどうするのかね!・・」と小父さんが心配してくれる。
「私は、今夜はこのままここへ泊まり込みます」「ほうかぁ・・大丈夫かのぅ・・ほんじゃあ・・・」と二人はどこかへ帰っていった。
明晩に備えローソクは消した。暗くなり一人になると、急に患者達のうめき声が大きく感じられる。目がなれてくるに随って、頭を冷やして廻るくらいのことは不自由を感じなくなった。
そうだ・・私は思い出して「山口さん」と呼んでくれた女性のところへ行ってみた。
冷やした布とりかえてやっても何の反応もない。ガーゼに含まれた水を、そっと唇に流してやると、かすかに動いたようだが、もう声を出す気力もないらしい。
このままだと、もう、朝まで持つことはあるまい。胸がつぶれそうに悲しい。
両親の心配そうな顔がふっと頭に浮かんだ。思えば今朝家を出てから、十六、七時間しか経っていないのに・・・何と長い長い一日であったことか・・・。
夜明け近くになって、ついウトウトと眠ってしまったらしい。
誰かにゆり動かされたような気がして、ハッと目が覚めた。キョロキョロ見廻しても誰もいない。もしや?・・・急いで特に重体だった人達を見て廻った。あの人もこの人も、私に声をかけてくれた彼女も、・・・四、五人が既に息絶えていた。
新しい水を汲んで来て、もう一度顔や手を拭き清め、合掌させてあげようと思ったが、焼け崩れ、腫れ上がった手ではそれもできない。仕方なく、胸のあたりに手を置き、とっておきのガーゼで一人、一人の顔を覆ってあげた。
これが精一杯の私一人が見送っただけの辛い悲しいお葬式だったのである。
そうこうしているうちに、小父さんとテツさんが来てくれた。
「ひどい匂(にお)いじゃのぅー・・」とテツさんがボソリといったが、私の嗅覚は完全に麻痺してしまっているらしく、何も感じてはいなかった。しかし、それを裏づけるように多数のハエがつぎつぎに入ってきて、追っても、払っても手の尽くしようがない。
小父さんとテツさんが、亡くなった人達を外へ運び出している時、労務課長と明子さんが 元田労務係長が遺体で発見されたことを知らせに来てくれた。
午前十時、みんなの手で火葬に付すという。元田係長とは浅からぬ因縁がある。
私が第三次女子挺身隊員として徴用命令を受けた時、わざわざ、三次勤労動員署(現在の職安)まで迎えに来てくれた人である。
小父さんとテツさんにわけを話して、火葬場(かそうば)として選んだという場所へ出かけ行った。
会社から百メートルばかり離れたところに小さな荒れ地があり、そこは月見草の群生地であった。・・が、ここも他と同じように瓦礫(がれき)の原と化していた。
みんなで、石や木片で地を平らにし、吹き飛ばされた家の柱や板などを沢山寄せ集め半分を遺体の下に敷き、半分を上において、会社から持ってきた石油をかけ、労務課長が火をつけた。全員合掌して見守るうち、乾ききった木片はすごい勢いで燃え上がる。こんなにまで残酷な体験を、なぜ私たちはしなければならないのだろう。頭部から次第に白骨化してゆく、元田係長の遺体に合掌しながら、私たちは地獄を見たのだ。
これが生き残った者に課せられた宿命なのだろうか・・・。戦争の残酷さ、悲しさを骨の髄まで思い知らされた。こういう時、人間は発狂するのだろう。
元田係長には一人の男の子がいたという。九州の田舎に住み、父の死をいまだ知らずにいるというその子が、今、この場に居合せなかったことが、せめてもの心の救いであった。
昼食用のむすびを受けとり、仮病舎へ帰ったが、口もきけない程にぐったりと疲れ果て、手を付ける気にもなれなかった。
「ねえちゃん、元気出して頑張れや・・・今、あんたが倒れりゃこの人らはみんな死ぬんで・・・」「一口でも食べないと、体がもちませんよ・・・」
テツさんと小父さんが本気で心配してくれるのがよくわかり、ありがたいと思った。
それにしても暑い日が続く。この患者さんたちはどんなに苦しいことだろう・・・。
火傷の傷口は見るみる化膿の度を増してゆく。ハエはますますうるさい。
薬が欲しい。せめて、消毒液だけでも欲しい。今の私たちにできることと云ったら一生懸命患部を清潔に保つこと、冷水で頭部を冷やしてあげること、これくらいしかできないのだ。わが身の無力さを思い知らされた。
夕方になって、明日は県外から援軍が来るそうなーというニュースが入ってきた。
それに力を得て、よし、“今夜もがんばるぞ″という気力が湧いてきた。
小父さんやテツさんも私の身を案じて、泊まり込んでくれるという。
その晩の死者は三人だった。
ウジ虫の発生はすごく早い。清潔第一にと心がけたつもりなのに、さし込んでくる朝日にさらし出された患者たちの患部に二、三ミリの白い糸くずのようなウジ虫が無数といってもいい程に、発生しているのを見つけて愕(がく)然とした。
もうだめだ・・・ 私にはもうどうすることも出来はしない。このままでは、この人達はみんな死んでしまうだろう。
会社の人たちがつくってくれた、心づくしのおもゆを暗い心で与えて廻っている時、労務課長と明子さんが勢いよくとび込んできた。「おい!!・・・山口君・・薬だ、薬が届いたぞ」ガーゼ、ホ一夕イ、三角巾、ホーサン水、チンクエールという火傷の薬、等々である。助かった!!・・・みんな踊り上がってよろこび合った。
この時程のうれしい思いをしたことは、かつて、なかったような気がする。
さっきまでの暗い気分はどこへやら・・・ 直ちに治療にとりかかった。
私が患部を消毒しウジ虫を拭きとる。テツさんがガーゼに薬をのばす。小父さんがそれを患部へはりつける。茹(う)だるような暑さも忘れて、必死で働いた。
二日、三日と経つうちに、患者の体のあちこちから人間らしい皮膚の色が甦(よみがえ)ってくるようになった。そして少しずつでも、おもゆがとれる人も出てきた。
「あゝありがたい・・・」誰にも彼にも、なにもかにも、お礼が言いたい。
神様、仏様、私たちを助けてくださいました、すべてのはからいに心から感謝いたします。
薬品や包帯材料などは次々に届けられるようになった。その為、朝夕二回の包帯交換が可能になった。ウジ虫の数は次第に減っていったが、大きいものは一センチ以上のもなった。その為、ピンセットで拾い取ることもできるようになり、かえって、楽な面もあったのである。
私たち三人の顔にやっと笑顔(えがお)がもどった。
「ねえちゃん、あんた歳はなんぼうや・・・見かけによらずよう頑張るのう・・・」
とテツさん。「みんな小父さんとテツさんのおかげよ・・・私一人では何も出来はしないもの・・・」何度お礼を言っても言い足りない気持ちだった。
「わたしなんか、たった一人になってしまって行く当てもなし、することもなし、ほんの少しでも役に立ったのなら、よかったよ・・・」小父さんは弱々しく言って淋しそうに笑った。
「ねえ、今日は私も会社の人達のところへ帰るから、小父さんもテツさんも早く帰って、ゆっくりやすんでよ!・・」
三人は元気よく夕食のむすびを食べ、笑顔で別れた。
そうは言ったが、私はやはりこの場を離れることは出来ず、その晩も泊まり込んだ。
翌朝、いつも元気にやってくるテツさんが来ない。十時頃になっても小父さんまでが姿を見せない。二人とも一生懸命働いてくれたから、さすがに疲れが出たのだろう。
などと思いながら、一人で包帯交換をしていると、昼前になって小父さんがしょんぼりと入ってきた。そして、「テツさんが・・・死んだ・・・」とボソリと言った。えっ!!・・・まさか・・・私は自分の耳を疑った。
「小父さん・・・今、何と言ったの?」
「テツさんが・・・テツさんが今朝方死んでしまった。」とその場へヘタヘタと座り込んで肩をふるわせて泣き入ってしまった。
全く、信じられない出来事であった。あんなに頑丈そのものだったテツさんが、一夜のうちに死ぬなんて、・・・口は悪いがお人よしだったテツさん。
不器用だが一生懸命手をかしてくれたテツさん。
ただ呆然とするばかりで、しばらくは涙も出なかった。
小父さんの話によれば、行方のわからぬ奥さんを探して求めて、ウロウロしているうち気がついたら、何時の間にかテツさんと一緒に歩いていた。二人は焼け残ったある家の押入れを見つけ、そこに入って日中の暑さを凌(しの)いだ。そして、そのままそこをねぐらにし、拾ってきたトタン板を戸の代わりに立てかけ、ずっと一緒に寝起きをしていたという。
昨夜半、うなり声で目を覚ますと、テツさんが大熱を出して苦しんでいた。
どうすることもできず、汗を拭いてやったり、体をなでてやったり、しているうち、次第に静かになり、やがてねむってしまった。だが、テツさんはそのまま目を覚ますことなく、明け方になって息を引き取ってしまったということだった。
朝になって、病人の護送や死体処理のため、出勤してきた軍隊にみつかり、テツさんの亡骸(なきがら)もそのまま運んで行ってしまったということである。
「そばについていながら、わたしは何もしてやれなかった。若いテツさんのかわりに私が死んでしまった方がどんなによかったか・・・」
小父さんは瘠せた体をしぼるように、悲しみ悔やみ続けた。
その翌朝のことである。どこで聞きつけたのか軍隊のトラックが二、三台乗りつけ、快方に向かいつつある十二、三名の病人を似島あたりの救護所へ収容するということで、さっさと運び去ってしまった。あっ、という間の出来事だった。
急にからっぽになってしまった聾学校の仮病舎、気がついたら、小父さんの姿も見えなくなっていた。軍のトラックで一緒に行ってしまったのだろうか・・・。
それともテツさんとの思いでを求めて・・・
私は今、何をしようとしているのかしら・・・ここはどこなの・・・?
すべてが悪夢だったのかもしれないの・・・。
私の頭は完全に狂った状態に陥っていたのだった。そのまま、眠ってしまったのか、失神したのか、気がついたら明子さんが頭を冷やしたりしながら、心配そうに看病してくれていた。あたりはもう暗に。
事務所の前に板囲いをして、あり合わせのものを敷いただけの仮住まいができていた。幾晩も病人達と一緒で、殆ど眠ることもできなかった私にとって、そこは天国だった。久々に冷水を浴び、ぐっすり眠ったおかげで、すっかり元気を恢復することができた。
軽傷だった人達も一人、二人と出社し始め、焼け残った場所を片づけて、何とか事務所らしきものも出来た。食糧倉庫も掘り出され、露天ながら炊事も可能となった。
いよゝこれから最後の大仕事である残務整理へととりかかっていったのである。
( 被爆編おわり )
あとがき
すこしでも詳しくできるだけリアルにと思って
書いているうちについついダラダラと長いものに
なってしまったが我慢して読んでほしい
私が命がけで歩いてきた道だから・・・・
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