昭和二〇年八月六日
当時は建物疎開と称して道路を広げて本土決戦に備えて類焼を避ける目的か次々と建物を壊して(柱の根元近くを鋸でひきロープを掛けて大人数で引き倒して)それを町内会や学生など全員を動員して跡片付けをする、これは勤労奉仕といって無償で半強制的に協力させられていたものです。
私の家は広かったので疎開すると言う、皆疎開を一斉にするので荷物を運ぶ馬車や車などがすぐには手配出来ないので一時近所の旅館の荷物を預かったため自分達の住まいをする場所も少なくなったのでその荷物を片付けていて母は足を痛めてびっこを引いていた、「奥さん勤労奉仕に出て下さい」と町内から当番の奥さんが知らせて来た、当時は母は逓信工作所(現在のNTT)に勤務していて今日が休みだったし僕も学徒動員で同じ職場に従事していたのでやはり今日が休みだったので母はモンペを着て出掛けようとしたが「お母さんそんな足でどうするのか」と止めた、僕は下の部屋で仰向けに寝転んで柱に足を持たせながらラジオを聞いていた。
母が裸になれ洗濯をしてやると言って脱がせて洗っていた、妹が進徳高女に通学していたが、勉強する訳でもなく建物疎開と言って跡片付けに駆出された。
母が午前八時一三分頃、二階にあがり旅館の荷物を片付けてマッチャン(マスコ)妹の勉強部屋を作ってやろうと僕を誘ってくれたので二階にあがる、僕は北側の窓から市役所の方向を見ていた。回りの建物は取り壊され片付けられて、各所にうず高く積み上げられて山にしてあった、見通しは良くなったものだと思った、雲一つない晴天だ、市役所の屋上から見張りの人が降りているのが良く見えてまるで箱庭の様だ、下の部屋のラジオから警戒警報解除のアナウンスの声が聞こえた、と、同時にゴーッと物凄い音と稲妻の様な青白い光で顔を包まれた、辺は真っ暗となり暫くは何も見えない・・・ぼんやりと光が射して来た。片付けて積み上げられた木に火がついて燃え上がっている、頭をやられたせいか何が何だか分からない。夜と錯覚して誰か焚き火をしていて爆撃されたのかと思った、空にぼんやりと太陽が見えてきて明るさがもどるにしたがって辺の様子が分かる様になった。二階に居た筈の僕の目の前に歩道があるではないか?一瞬のうちに家が潰れたものだと分かった、逃げようとしても柱や材木で下半身を挟まれてでられない・・・もがいていたら体がすっぽりと抜けた、助かったと思った瞬間顔に手を当てると馬鈴薯が乾燥して皮がむくれて剥がれた上を撫でる感じだ。顎から血が滴り落ちる、ものすごく痛い。
突然ウオーと言う大声で血まみれになった人達が大勢で右往左往する、まるで生地獄の絵を見ている様だ、母はと見たら姿が見えぬが声はするので、逃げて来る人達にお母さんが下敷きになっているので助けて下さいと言ったら、馬鹿それどころではないと怒鳴られた、見渡すかぎり建物が無い?母は運よく箪笥と箪笥の間に居たらしい。這い出して来た、僕は裸になった時に着るものはと二階にあがった時、母に言ったらそこらのものを何でも着ろと言ったので綿入れのちゃんちゃんこがあったのでそれを着ていたので後で思うとこれが命を救ったものか表面と綿は熱線で焼けてぼろぼろになり、なくなっていた、広島大学の講堂が倒壊して一面火に包まれていた。赤い炎と黒煙りをあげて燃えていた、あちらからもこちらからも火の手があがる。
不安が募る、建物疎開の成果か逃げ道は塞がれなかったものらしい、あちらに逃げては危ないこちらも危ないと言う人々のわめき騒ぐ声、近所の翁坂と言う中国新聞販売所の人が薄い布団を下さってこれをかぶって逃げなさいと言われた、何時も肌身離さず持っていたお金も不意打ちでは何の役にもたたない母は僕が下半身に着るものを倒壊した建物の中に入って出して来た、お母さん命があってのものだねだから逃げようと言う、僕は母に手を引かれて大勢の人が移動して行く母につれられて逃げて行った、富士見町から千田小学校の前を通る、当時は学校の前が小川が流れていた(生活用水が排出されて汚れた川だった)勤労奉仕に駆出された子供達がシャツも焼けて肌が出て、まるで幽霊のように手をさげてその手からは皮膚が剥がれて、五~六センチは垂れ下がっている、おばちゃん助けてと寄って来るどうにもならない、橋の欄干にうずくまっているじっとしている子供達もいる。
この世の光景とは思えない。御幸橋を渡る。橋から北の方角を見ると広島ガスの円筒形のガスタンクが激しく燃えていて大きな破片が火の尾を引きながら飛び散っている、川土手をのろのろとまるで無気力なうつろな顔をして歩いている。
途中で兵隊さんがけが人の手当てをしていた、僕が見て下さいと言うとこれは、火傷だからここでは手当てはできないと言われた?何故火にあたった訳でもないのに火傷とはその時には理解ができなかった、顔が腫れてきたのか目も少ししか開かないので辺りも良く見えないくらいになった。母に手を引かれた、とぼとぼと歩く、途中小学校の講堂の様な所で手当てをしてもらう、薬と言っても特別なものはなくて食用油を塗りその上からぐるぐると頭から顔に包帯をしてもらった。
その夜は神田神社の境内の縁側の様な所で休むことにした、夜空が辺り一面火の海で激しく燃えている・・・父は・・・妹はどうしているのだろうと心配だ、母の話では帽子をかぶっていた人はその帽子の下からまるできわ剃りをした様に頭の毛がなくなっていたと言っていた。回りで虫の息で横たわっている人達、水を下さいと言う大勢の声。
夜が明けると何と今まで一緒に横になっていた人達が息をしていない。あちらもこちらも異常な光景である、宇品港から似の島に手当てのために送られることになった、軍医の人が僕を見るなりこんなに包帯を巻いていたらケロイドが残り二目と見られぬ顔になると言われて痛がるのをむりやりに包帯を剥がされて白い火傷の薬を顔一面に塗って下さった。
船を待っているうちに、意識がなくなった・・・気がつくとタンカに乗せられて船から降りるところだった、夕日が斜めに射していた、兵隊さんがまた鉄砲患者を連れて来たよとの声が耳元でする?あとで分かったのだが行ったきり帰らぬ患者の意味らしい、母はと目で探すとタンカの横についていてくれた。あまりの負傷者なのでもはや畳の部屋は勿論板張の床もない・・・コンクリートの上にむしろを敷いてその上にまるで魚市場の魚の様に寝かせてある、夜は空襲を恐れて灯火管制と言って辺りに明りが漏れない様に気を配っているらしい薄暗い、水をくれ水を下さいとの大合唱だ。母は僕が水が欲しいと言ったら水を飲むだけ飲ませてくれた、これもあとで聞いた話しではもうどうせ助からないのなら、十分に水を飲ませてやろうと思ったとの話だった、粥が竹の筒の容器で食べさせてもらった。これも数が少ないので回し飲みとしていた、僕はもうほとんど目が見えない・・・ので食べたが母は火傷や負傷した人の膿が回りにべっとりとついていたので食べられなかったとこれも後日話していた。
夜が明けた回りのほとんどの人が静かだ。見ると死んでいる。あちらこちら死体がごろごろと転がっている、ここでも医薬品も底をついて無く手当てをしてもらうこともできない・・・夜が明けてからまた宇品に船で帰る、どこに行くあてもない、当時母が勤務していた逓信工作所に大きな防空壕が作られていたのでそこでひとまずお世話になることにした。
二日目に母がお父さんとまっちゃんが探していたら分かる様に立て札を立てて来ると出掛けて行った、焼け跡の木切れを拾い消し炭となった墨で書いて立てておいたとの話。
その明くる日父が尋ねて来てくれた、父は軍需工場に勤務していて交替の人が遅れて来たので向洋の駅で発車間際の汽車に乗ろうとしたら危ないと駅員の人に怒られて手を離して歩いて帰る途中ビカっと光ったのですぐそばの側溝に身を伏せたとの話で並んで話ながら同僚の人と帰っていたところその人は体全身に火傷をしたとの話だった、燃え盛る火の中を僕たちの安否を気遣って家まで帰ったものの物凄い火勢にどうすることも出来なくて日赤病院に避難していたとの話だった。一週間くらいして毛木の叔父さん(母の姉の婿さん)が来てくれた。内に来いと言ってくれた、軍隊のトラックの荷台に乗せてもらい横川駅近くまで行く、駅も完全に焼失しているのでここから徒歩で次の次の駅くらいまで歩く様になった、途中死んだ人を兵隊さん達が井桁に山積みして重油をかけて焼いていた。煙りがあちらこちらとたち登っていて物凄く臭い・・・、母に手を引かれて渡し船(当時はいむろの駅から川を渡るのは橋がないので)に乗りやっと日浦村毛木にたどりついた農家の子供たちが僕の顔を見て化け物の様だったので皆逃げ出していた怖い物見たさで陰から顔を出してまたすぐ引っ込んでいた。
叔父の家に世話になり三日日にマッチの頭くらいの斑点が全身に出た。母があきさんシャツを脱いで見る様に言うので裸になったら全身だ・・・そのころこれが出ると三日間の命だと言う噂が流れていたので、思ったより冷静に今まで生き延びたが僕の命もこれまでかと縁側から山を眺めてしみじみと感じた。
叔父の家に世話になって一週間目くらいに母は物凄く大量の鼻血が出た。洗面器を受けないと駄目なくらいで顔色は青ざめて土色・・・もう死ぬと思った、お医者さんも当時はどの様な治療をして良いか分からないので適当な薬を注射されていた様だ。その後生きる運命か段々と体調も回復して来た、畑仕事や山から薪を出すのを手伝ったりしていた。顔のかさぶたも段々と取れて来た、蕎麦殻を煎じた湯で洗うと良いと聞かされて良いことは何でもとやった、頭の毛は二度と生えないのかと心配したがそれもだんだんと生えてきた。後々までやはり爆心地方面を向いていた左の耳の穴と頭の左側が火傷の後遺症が酷く何年も日にあたるとじゅくじゅくと化膿して困った、被爆当時は一六歳だったが二〇歳くらいになっても五~六百メートル歩くごとに休憩しないとしんどくて歩けないし階段もあがると脈拍が百八十くらいにあがって息苦しく、しゃがんでいて立ちちあがると目の前が暗くなり目まいがするといったこともあったが現在はお陰で元気になりましたが息子や孫に影響がでなければ良いがと心配しています。
※尚妹は後日判明したのですが府中国民学校で三日後の九日に亡くなったと分かりました両親の名前をはっきり言ったそうです、さぞ会いたかっただろと思うと胸が搔きむしられる思いです。
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