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被爆について思うこと(平成27年度)/被爆体験記 ~当時の日記から~ 
松下 眞紀(まつした まき) 
性別 女性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年 2015年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 高等女学校 4年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は広島市から三〇キロメートル位の町の女学校四年生でした。当時の事を福島県被爆協会の五〇年誌に載せて頂いたものをグループの係りが月報にのせるためコピーしてくれたものを同封します。

現在の私は「加齢黄斑変性」という眼病で二〇〇八年から月一回東京の病院に通っています。又昨年一一月には「胃がん」内視鏡手術、「圧迫骨折」もありました。
今は何とか一人暮らしをしていますが不安です。

原爆は地球上で二度と使われてはいけません。
現在世界四〇ケ国が保有しているとの事で恐ろしい事です。
体験者も少なくなっている今残された者として核兵器廃絶を強く訴えます!!

被爆体験記 ~当時の日記から~
一九四五年(昭和二〇年)八月六日 午前八時一五分 広島への原子爆弾投下
八月六日、広島に原子爆弾が落とされて七〇年目の今年、奇しくも同じ八月六日に郡山友の会の例会がありました。
私は広島で原爆を体験した被爆者として昼食後にお話をさせていただきました。
以下は、当時の日記をもとに、県被爆者協会で五〇年記念誌を作成した時載せた体験記です。

◇八月六日(月)
今日は忘れられぬ日だ。朝、朝礼をしているとピカ!!とひかり、又ドン!!と大きな音がした。
びっくりして見ると真っ白いきれいなきれいな、でもおそろしいB29がゆうゆうと飛んでいた。その時はあまり大事(おおごと)とも思わなかったけど、とても大事で広島中火の海だ。罹災者がいっぱい帰られた。皆たんかでかつぎこんだりしてた。はじめてそんな人のけがをしたのを見た。気の毒で気の毒でたまらなかった。

お祖父ちゃんはどうかと、とても心配したけれど無事だった。吉川さんや津田さん達、その他の人も身内の人が広島へ行ったと心配していた。牧野さんも・・・。
お祖父ちゃんはとっても運が良かったと思う。吉村のスエノさんも大負傷をしていた。私は見た。光線バクダンとか言う初めての新武器を使ったのだそうだ。
一日中ほとんど作業しなかった.

◇八月七日(火)
今日も朝から国民学校の講堂へ看護に行った。一日中とても忙しかった。吉村スエノさんは大分ひどいそうだ。

◇八月九日(木)
今日は私の誕生日だ。忘れていた。あまり多忙なので・・・。
今日は四年を二つに分けて午前午後と交代した。本当にきもが大きくなった。平気だ。でもとてもいやな臭いがするのはくたびれた。私たちにそれがしみ込んだようだ。くさい。吉川さんのお母さんはまだ帰られないそうだ。もう四日になる。可哀相だ。祖父は今日コーチャン(従兄弟、広島高等学校一年で動員)へ面会に行かれた。岡部のおとうさん、とうとう死なれた。可哀相だ。

◇八月十一日(士)
今日は一日中頭が痛かった。毎日の看護で、又今頃少し無理をし過ぎたりしたのが悪かったのだろう。自分も病気の体のくせに(同学年は広の工場へ行っていたが、私は体を悪くして一年下のクラスと学校工場へ通った。)今日吉村の親類の西丸の兵隊さんが帰られた。とても悪いらしい。死かけていられる。其の他兵隊さんが沢山帰られた。負傷者だけ三十人位だ。

◇八月十二日(日)
今日はとうとう休んだ。祖父も広島へ行かなかった。少し洗濯なんかした。寝たり起きたりだった。

◇八月十三日(月)
今日もう一日休みたかったけど行った。が、まだまだ頭が痛かった。兵隊さんが国民学校にも一杯だ。一日に大分多く死なれる。気の毒だ。とても忙しい。きたない仕事まで皆して差し上げている。

◇八月十四日(火)
今日もまだ頭が痛い。でもそれより右肩や心臓が少しずつ痛いのが気にかかる。近いうちに診てもらおうとは思ってるけど・・・。今日も一日中国民学校へ手伝い、とても忙しい。B29が七、八〇機通った。とても気持ちが悪かった。

◇八月十五日(水)
今日はお盆、一日中休んだ。家でごろごろしていると戦争を忘れたようだ。又明日からズルズルの兵隊さんを世話すると思うと・・・・・・でもこれも国のため。

◇八月十六日(木)
今日又一つ悲しい事・・・・・・と言っても単なる事ではない。国全体の一大事!!日本が・・・・・・あの絶対不敗だと言っていた日本がついに負けたのだ。どきっとした!
昨日ラジオで陛下自ら詔書をお下しになられたそうだけど、私が聞いたのは今日だ。もう作業も何もしない。出動学徒も帰るそうだ。兵隊さんの看病に三、四年全部で行った。だけど昼までだった。

◇九月四日(火)
今日四年生は広島へ出発(市内被爆者の救護)。私達は学校へだけ行った。広島の土地にウラニュウムとかいう毒があるそうで、それを吸った者は火傷がなくても死んでいくそうだ。それで学校は止めても広島へは行かさないという親がだんだんでてきて、皆学校へ来ない。四年はたった六十五人だった。山口先生、物凄くぷんぷんせられた。家の祖父も毒を吸っているから心配だ。

日記は毎日つけてありますが、この辺までにします。
祖父は広島市役所に勤めていましたがその日、途中自転車がパンクして一汽車遅れたため広島の一つ手前で被爆しました。
私自身は広島から汽車で一時間ほどの向原町の旧制高等女学校四年生でしたが、学徒動員で学校が工場となり、被服廠の仕事をしておりました。六日の朝、私は女学校の朝礼で校庭にいました。ピカッ!と光り、ドン!という音と共に、一同くもの子を散らすように逃げました。近くに爆弾が落ちたと思い、私は近くの植え込みの下にもぐり込みました。多分午後近くになって指令があったのでしょう。駅まで担架を持って被爆者を運びにいきました。動員されて臨時に病院となった町内の国民学校に毎日看護に通い、次々と死んでいく人を呆然と見送りました。

それは、今思い出しても悪夢のような毎日でした。耳が半分取れてぶら下がったり、皮膚はボロきれのように裸の体から垂れ下がり、又ある少年は頭がパクっと前から三分の一位のところから割れて、その傷は早や腐り始まっていたり、六日当日とそれから日が過ぎるにつれて負傷の外形も違った状態で、小学校には毎日被爆者が救護を求めて集まってきて、講堂も教室も一杯になりました。その中には親類の人もいましたが、可哀相と思いながらもどうするすべもありませんでした。兵隊さんたちには水や食事をあげたり、熱の出ている人のタオルをかえて冷やしてあげたり洗濯したりという事ばかりだったと思います。

その間もひっきりなしの苦しいうめき声、翌朝行ってみると苦しがっていた人がいなくなっているという事も毎日のように続きました。教室の一つが屍室といわれ、次々と運ばれて行き、やがて裏山に穴を掘って死体を重ねて焼いているとのこと、私達は亡くなってからの事の手伝いはありませんでしたが、その死体を焼く臭いで町中包まれているようでした。
その後学校が再開され、授業が始まりましたが、教科書は使えず、本当に学校らしい生活に戻ったのはどの位たってからでしょうか。でもあの時亡くなった人の事を今こうして思い出しますと、本当になんと戦争とはむごいことかとつくづく思います。

このかけがいのない地球で、これからは絶対核戦争はあってはいけない。これを体験した私たちが、このことを強く訴えて子や孫に伝え、世界中戦争の無い未来を子孫に残していかなくてはと強く思います。
  

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