私は五歳五か月の時に広島南観音町(爆心地から二・三キロメートル)で被爆した。
幼稚園生の私は今でもはっきりと原爆が投下された以後の事を明確に覚えている。頭の中にプリントされたと言っても良い。
人の運命は不思議だ。私は原爆投下の数分前までおなかが痛いと朝ごはんも食べず寝ていたが、年子の姉が小学校に行くことを知り、習慣ではないのに玄関先まで送りに出ていった。その直後に何が起こったか判らないうちに、左上腕から血が流れ出た。飛んできた瓦で怪我をしたのだが、恐ろしさで「血が出た」と泣き叫んでいた。私が数分前まで寝ていた布団は真っ二つに切り裂かれ、二部屋を通り越し、庭先の柳の枝にひっかかっていた。もし、数分前に起き出さなかったら、あの時、私の命は終わっていた。
七五歳の現在、私の一生の記憶は原爆被害から始まっている。戦争について学ぶことがなかった学生時代、仕事に追いまくられて来た現役時代、六五歳で大学を退職後も七〇歳まで研究生活を続けた後、やっと本来の原爆に向き合う時間と私自身の決断ができた。この五年間いろいろ戦争関係の本を読み、テレビ番組を見てその本質を知るにつれ、あの戦争のむなしさが私を襲ってくる。戦争に突入せざるを得なかった理由はそれなりにあるかもしれないが、責任の所在は明らかにされない。被爆者が長年の間、国に謝罪や補償を求めても「国民は等しく受忍すべきである」という結論で突き放されている。しかし、軍属には未だに恩給が支給されている国の考え方に理解が出来ない。
今年は被爆七〇年で各メディアのアンケートがきた。
その中にあなたはアメリカを憎みますかとか、アメリカの大統領に謝罪してもらいたいかと聞かれたが、私はアメリカに対して憎みはしない。大統領に謝罪も求めない。それが戦争と言うものだからである。しかし、原爆と言う兵器がどのような被害を人類に与えたのかをしっかりと見定めてもらいたい。アメリカ大統領は広島、長崎を訪問してその結果を見詰めるべきだ。これはまた、核を保有する国の指導者は訪問し現実を知るべきである。
日本は情けない。いくらアメリカの核の傘の下にいるとはいえ、核兵器廃止を声高に主張できない政府の姿勢に怒り以外は感じない。
このような日本で次世代に期待が持てるのだろうか。
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