原爆投下時にいた場所と状況
広島市段原東浦町
一号(直接)被爆
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
わたしと学友が被爆したのは、爆心地から二キロ離れた地点だった。そのあと、次つぎに避難してくる負傷者を救護するために、「師団司令部に救援を頼みに行け」と命じられた二人は、爆心地から少しでも遠いところへ逃れようとする人たちの流れに逆らって爆心地に向かった。途中、全身にガラスの突き刺さった血まみれの人、やけどで皮膚の垂れ下がった人、熱線と爆風で着衣のほとんどをはぎ取られて全裸に近い人、恥部丸出しの人・・・・、道路にはガラスの破片や石ころが飛び散っているのに、ほとんどの人たちははだしのままだった。これはもう人間ということはできない。
比治山橋(一・八キロ)についたときは、道の両脇は、赤黒く焼けただれぱんぱんにふくれあがって男とも女ともわからない姿ですでに死んでいる人、いま息をひきとる人、苦しんで水を求める人でいっぱいだった。少し動ける人は、苦しさに耐えかねて川まで下りていき、水を一口飲んだあとはそのまま流れに引き込まれるように消えていった。
二人は、一〇時ごろより二時すぎまで、比治山橋上で師団司令部まで行く努力をしたが、猛火にさえぎられ、ついに「任務」を果たせず、いったん寮(二キロ)に帰った。残留者のなかには、農場に出ていて火傷をおったもの、寮が全壊し、その下で亡くなっているものもいた。
翌日は九時ごろより、わたしの本来の任務である広島日赤病院に入院中の広島師範学校男子部部長酒井賢さんを捜しに出かけた。比治山から宇品方面に向かい、御幸橋を渡って日赤病院(一・五キロ)に行った。被害は中心部に行くにしたがって大きく激しいものになっていた。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
無傷で助かったと思った人たちも急性放射線症によって次つぎと死んでいった。わたしも歯ぐきからの出血、はげしい下痢、吹出物に苦しめられ、学校がすぐそこにあるのに、休み、座り込み、寝ころがってでなくてはたどりつけなかった。わたしは、『あすは我が身』と思い、死ぬことばかりを思いつめ、いつ、どんな方法で自殺するかを考え、それでもあと五年は生きられるだろうと、五年を一区切りにして、そのあとの歳月を生きてきた。
ある医師は、被爆者を対象にした話のなかで「被爆者は、一〇〇%ガンになる」と言い切っている。わたしも八九年五月、悪性リンパ腫の手術をし、そのあと、一か月に一回の血液検査と三か月に一回のCT、骨シンチ、ガリュームシンチを受けなくてはならなくなり、三か月を一区切りにした生活を強いられるようになった。しかし、わたしは負けなかった。それは、わたしよりももっと困難ななかで、正しく、きちんと生きている被爆者に学び、はげまされてきたからである。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
相談と運動は東友会の二本柱であるという姿勢を堅持していくなかで、たとえ寝たきりの人であっても首相への要請はがきを書き、核兵器廃絶の署名をするなど、その人ができることをすることによって、だれもが生きがいをもって生きることができる人間の輪を広げる取り組みをすすめたい。
核戦争の生き証人として、被爆の実相と被爆者の実情を広く伝え、核兵器のない世界を実現していきたい。とりわけ子ども・青年がこの運動を深く理解し、たたかいに参加することを期待する。
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