原爆投下時にいた場所と状況
廣島県加茂郡豊栄村
大学数学教室の図書文献の疎開
二号(入市)被爆
昭和二十年八月、当時広島文理科大学数学科二年に在学中であった私は原子爆弾に被爆しました。恩師、級友、知人の多くが、或いは非業の死に倒れ、或いは後遺症に永らく苦しむのを見ては、私の被爆など取るに足りないことであり、公の援助を受けるのはこれらの方々に対し申し訳ないことのように思えて、被爆者手帳の受給を申請しないで今日に至りました。
然るに、一つには齢七十三を数え、老化にしたがう後遺症の今後に不安を覚えるようになり、また一つには、先般のスミソニアン博物館での原爆展の中止事件にショックを受け、私一人の事とは雖も被爆した事実は公の記録に残すべきだと思うようになりましたので、被爆五十年の今年こそ最初で最後の機会と思い、被爆者手帳の交付を申請する次第です。
当時の状況に就いては、安易に話す気持ちにはなれず,今まで他人に話したことは一度もありませんし、家族にもあまり詳しくは話していません。広島の原爆記念館は、多くの方々の非常な努力で大変立派な展示がなされ、また近ごろ新しく拡張されますます充実したとのことですが、私が数年前参観したときは、ホンモノはこんなものではなかったと云う気持ちが先にたちました。ホンモノは展示出来ません。それと同様に私がしゃべることも虚しいことのような気がしていたのです。
また人間にはあまりに強烈な事実に遭ったとき、それを見聞きする回路を一時中断したり、又は一枚ヴェールを被せてそれをまともに受け止めて蒙る精神的被害を避けようとする働きがあるように思われます。私が見たあの状況もその真っ只中での経験であったにも拘らず、記憶が途切れていたり、映画でも見ていたかのような間接的な感じがしたりするのはその為かもしれません。しかしそれでも尚、このような自己防御線を突破したいくつかの場面が五十年の歳月にも色褪せることなくはっきりと瞼に焼き付いて残っています。その幾つかを、あの日に至るまでの思い出と共に乏しい筆力ながらここに書き留めておく事にします。
私は昭和十六年四月広島高等師範学校理科第一部(数学専攻)入学、十八年九月同校中退、飛び級で同年十月広島文理科大学数学科入学、そして二十一年九月同学を卒業しました。はじめの頃はまだ余裕もありましたが、次第に物資、食料が乏しくなり、勤労動員などで授業も欠けることが多くなりました。私は大学入学以来、数学科主任教授であられた岩付寅之助博士から特別のご指導を賜りました。先生の教授室に机を頂きいつも先生のお側にいて教室での講義以外にもいろいろ教えて頂き、また度々翠町の御自宅に伺って数学以外に古事記など日本の古典の講義を私一人の為にして頂きました。寒いとき和服姿の先生が階下から火鉢を抱えて二階の座敷に運んで来られた姿が目に浮かびます。燃料の乏しかった当時のことだから、その間階下では奥様や家族の方々が寒さを堪えておられたのではなかったかと、今これを書いていて初めて気がつきました。
昭和十年代の前半、岩付博士をリーダーにして物理学の三村剛昴教授、数学の森永覚太郎教授、柴田隆史教授等が、波動力学と幾何学との融合としての波動幾何学を確立され、広島学派と呼ばれる名声を世界に馳せられました。また一方岩付先生は非常に純粋で高潔な愛国者であられ、日本古来の本当に美しい精神の持ち主でありました。当時の大学教授といえば今の掃いて捨てるほどいる大学教授とはワケが違うし、特に勅任官で海軍では将官待遇されていた先生は高級官僚や軍関係者同様随分融通が効いた筈ですが、そのような事は一切されず我々と同じように窮乏生活に耐えておられ、そして私達に美しい日本精神を教えて下さいました。
私達は呉海軍工廠からの委託研究で、飛行機から投下した魚雷を海面でバウンドさせながら水上を走らせ敵艦に命中させるための魚雷の運動の解析とか、海面を航行する大きな船による水圧変化に感応して爆発する布設機雷の掃海の為に斜めにした板をポートで曳航する時の水圧の計算とかを、岩付先生の指導の許で研究するという大学生らしい幸せな時期もありましたがそれも束の間で,宇品金輪島の暁部隊の軍需工場に動員され、エアーコンプレサーで鋳物の土を落とす重労働に駆り出され、頭脳の使い道の無い毎日を空腹に耐えながら送りましたが、七月中旬、命令により数学教室は貴重な図書文献を疎開することになり、加茂郡豊栄村の天理教会に森永教授、吉田助教授外同級生数名と移りました。山陽線八本松駅からバスで十六、七粁の山の中で食料もきわめて乏しい中それなりに努力した毎日でした。広島へ連絡にいった帰り一日二往復のバスに乗り遅れ、谷川の水を飲みながら山道を歩き通した事を思い出します。
そして八月六日朝、晴天で明るい周囲がピカッとひかり、つずいて家がガタガタと揺れました。何事かと見ると西南西四十粁弱の広島の上空に灰白色のキノコ雲がモクモクとゆっくり立ち昇るのがみえました。ガスタンクかガソリンタンクが爆発したのか等と話あっていましたが、何の情報も得られぬ儘翌日になりましたら大学が焼けたらしいと云う噂が何処からか流れて来ました。当時は学生と雖も学徒動員令の下にあり、命令なしに勝手な行動は許されなかったのですが、広島の惨状は知る由もない乍らも学校が焼けたのなら帰らねばならぬと決め、八日早朝、全員八本松駅から汽車に乗りました。途中その一人が、対向する列車に手先からボロボロの着物が垂れ下がっている人や顔一面に赤い筋のついてる人が乗っているのを見たと言っていました。あとから考えると焼けて皮膚がボロのように垂れ下がっている人や、爆風で吹き飛んできたガラスの嵐を顔面に受けた人達だったのでしょう。数日後のことですが以前の下宿を尋ねた時、襖が鋭い細かいガラスの破片で斬り裂かれて、その表面一杯に狭い間隔の平行線が刻まれているのをみて、ゾッとしました。
広島駅に着いた時プラットフォームの鉄骨の柱以外には何も無く、市街も一面の焼け野原でそのずっと向こうに宇品湾の島影が見えました。勿論改札もなくそのまま外へ出ると道も一面瓦の破片等で覆われています。その中を市電の線路沿いに大学のある東千田町目指して歩きました。僅かに幾つかの鉄筋の建物だけがその外観を留めていましたが、その一つである市役所の残骸の玄関から真っ黒な丸太のような死骸を次々とトタン板に乗せて運び出しているのに逢いました。有名な広島日赤病院の道路を隔てた反対側にある大学正門の太い石の門柱と鉄扉は残っていましたが、その傍らに馬が一頭仰向けに倒れ四肢を空に向けて死んでいました。構内は、高等師範や付属中学の木造校舎はすべて灰燼に帰し、大学の茶色化粧タイルの本館や付属小学校の白色コンクリートの建物は外観だけ残っていました。付属小学校の階段途中の踊り場の天井の丸い電球が細長いキュウリのように伸びて垂れ下がっていました。
まず岩付先生の消息を尋ねて歩きました。途中出会う人は皆火傷を負っていたり怪我をしている人たちばかりで、無傷の私たちは場違いの恥ずかしさを覚え火傷でもしてればよかったというような気分さえ感じました。ただでさえ食料のない時代にあの状況で何を食べ何処で寝たのか思い出せません。話は逸れますが戦後ずうっと研究を共にした親友である九州大学の安浦さんは動員されていた広島高等工業学校で被爆しましたが、焼け跡から掘り出した軍隊の牛肉の缶詰の配給を受けてこんなに旨いものはないと喜んだのだけれど、後から放射能が-杯くっついていた事が判ってヒヤッとしたと笑い話をしていました。安浦さんはその後九州大学工学部長を務め、私達の専門の電磁界理論で世界的権威になられましたが、まだ働き盛りの六十二才で内臓全部に癌が広がって亡くなりました.
何処で誰に聞いたか覚えがありませんが翌日岩付先生の御遺体が日赤病院で見つかり御自宅に帰っていることが判りました。広島も御幸橋を南に越えた宇品寄りには焼け残った家も多く、先生のお宅も無事でした。御生前何度となくお伺いしてお教えを頂いた馴染みの座敷に先生は毎日着ておられた茶色三つ揃いのセビロを召したまま布団の上に横たわっておられました。先生は原爆投下の時は研究室におられ、飛行機の爆音に窓から顔を出された瞬間飛んできた小さな木片が後頭部に突きささり、殉職されたと云うことでした。御遺体は全身が膨れあがっていて三つ揃いのチョッキがはち切れそうにパンパンに張りきっていました。奥様はスラリと美しく上品な方で我々の憧れの的でした。それまで気丈に振る舞っておられましたが私が伺って御遺体を拝したとき、気が弛まれたのか、『主人は真面目にお国の為に働いたのに。何も悪いことはしてないのに。』とだけ言って嗚咽されました。物理学科の助教授(名前が思い出せない)が弔問に来られて、ピカの時自分はランニングシャツと半ズボンで大学の塀に沿って歩いていたが、丁度塀の陰だったので火傷一つしなかったと言っておられました。いろいろな運命があるものだと思いました。
御遺体を納める棺など望むべくもなく、また屍毒で直接触れることも出来ないので、布団に横たわった儘の先生を布団の端を持って持ち上げて何処でかで借りてきた大八車にお乗せし、私が前で梶棒を握り、同級でずっと行動を共にしていた西蔭英夫君(後に宇和島高校長)が車の後押しをして、大学構内まで運びました。焼け跡の付属小学校横に穴が掘ってあり先輩の助手の人が取り仕切っていて、茶毘用の燃料を拾ってくるように言われ木切れを集めました。しかしいま思うと何処にそのようなものが焼け残っていたのか不思議です。そして先生の御遺体を布団ごとゴロリと転がして穴に落とし込みました。その時の、御遺体がゴロリと転がって燃料の板切れの上に横たわった有様がまだ瞼に残っています。その上に布団を被せ板切れを乗せてさらに焼けトタン板を被せて火を付け、帰りました。奥様のご指示で先生御愛用の品物をなにか一緒にいれたような気がします。翌日お骨を拾いました。奥様は元々ご病身な上お疲れでとても動ける状態でなかったので、私がすべてさせて頂きました。それにしてもあまりにも粗末な御葬送で、奥様のお嘆きそのままに、あのような立派な先生が何故このような目に遭われるのかと残念で、申し訳ない気持ちで一杯でした。
翌日広島市西端の高須町の伯父の家へゆきました。伯父は当時広島唯一のデパート福屋の常務取締役をしていて他にもう二人の叔父もいました。私はこの伯父達を頼って広島の学校へ入ったのでしたが、特に食糧が乏しくなってからはしょっちゅう空腹を充たしに伯父の家へ行っていました。爆心からすこし離れた場所で一帯は焼けていないと聞いていましたが、若い叔母が当時多くの主婦達が駆り出されていた建物疎開作業などに出ていて被災した可能性もあり、四人の幼い従弟妹達のことも心配でした。勿論乗り物など一切あるワケもなく、広島の街を端から端まで瓦礫の道を歩きました。その後も毎日毎日歩き回ったのですが、空き腹で破れ靴を履いてよく歩いたものだと思います。伯父の家は幸い天井板が爆風ではずれてぶらさがっている以外、皆無事でホッとしました。
翌日また大学に戻りました。はじめの頃数年を過ごした懐かしい高等師範の淳風寮や剣道部の噬雲寮など大学近辺の建物はその場所さえ判らなくなっていましたが、下宿していた字品寄りの皆実町や翠町の家々は焼け残っていました。そのうちの一軒で上に述べた、ガラスの小さい剣の嵐にずたずたに切られた襖を見たのでした。またその家の座敷に真っ黒な顔の人が横たわっていました。下宿のオバサンの知人らしく、オバサンが、若くて綺麗な奥さんだったんだけれど、と言っていた言葉が耳に残っています。
詳しい事は覚えていませんが、市内をあちこち歩き回りました。知人や友人の消息を求めたり、壊滅状態とはいえ大学報国隊の一員としての任務があったからです。その途中、県立一中(現国泰寺高校)の側を通りかかってフト横を見ると、すぐ足元の運動場らしい広場のの端の石垣沿いに、ズウーッと一列にびっしりと並んで、脚を抱えてつくばっている死体の列が目に飛び込んできた時には、麻痺して鈍感になっていた神経でもゾーッとしました。その近くに中学下級生らしい小柄な真っ黒に炭化した死骸が、俯せのまま胸を反らせて両手を上に伸ばしていました。そしてその死骸には下半身がありませんでした。また広場の多くの死体の中に、国民服と呼ばれた当時の制服を着てゲートルを巻いた人が仰向けになって両手両足を空に向けて倒れていました。その人の腹部が破れて露出した腸が風船のように大きく丸く膨れあがっていました。まわりは焼けた人ばかりなのにこの人だけ焼けていなかったようなのが今になると不思議です。道路は瓦礫やいろんな物に覆われていましたが、歩いていて時々グニャッと濡れた畳を踏み付けました。その度に飛び上がる位気味が悪かったのですが、あれはきっと死体だったのだと思います。
その頃は夏体みも何もありませんでした。その前帰郷が許された時、これが最後の休みと思えといわれ、もう故郷には帰れないものと思っていました。昭和二十年六月十六日付、広島高等師範学校長名のその年の新入生に対する、次のような要旨の通達があります。「拝啓 時局緊迫の折柄、神国護持の為益々御健闘の事と存候。(中略)事態は日一日と苛烈を加え、文字通り皇土悉く第一線と相成候。正に学徒の挺身場は戦線に、増産に、防衛に余す所無かるべく、一度家郷を出でては只管皇国護持の特攻隊となって突入し、何時如何なる場に倒るとも、些かも悔いなき覚悟極めて肝要と存候。就てはこの度の結集は応召の気概を以て家門を出でられ度く、墓参を始め身辺整理等、万遺憾なきを期せられ度。云々。」これは私達に対するものではなく、また私達にはもう少し気持ちに余裕がありましたが、それでももう親の顔を見ることなく死ぬのだと思っていました。そのうち八月十五日の正午を迎え、敗戦を知りました。ホッとする気持ちと切腹せねばならぬと云う気持ちとがあったことを覚えています。
学徒報国隊も自然消滅したわけでしたが、広島を見捨てて直ぐに故郷に帰る気持ちにはなれず、数日間をなすこともなく茫然と過ごした後、徳島に疎開していた父の許へ帰りました。手紙その他通信手段は何も無かったので安否を報せることは出来ませんでした。その上戦争が終わったというのに暫らく帰らなかったので、父は一人息子の私が死んだものと覚悟しかけていたそうで、幽霊ではないかと足元を見たそうです。
数日後両足の膝から下に水泡が沢山出来ました。あれが放射能の所為だったか否かは判りません。その後、後遺症かどうか判りませんが、何の原因もないのに蕁麻疹が脚の方から始まって内臓にも出てモルヒネで押さえる程痛み、顔から頭へ抜けるのに一週間かかることが五十才頃まで続きました。また全身が凝ったようになり何をする気力もなくなってただボーッと一ヵ月位過ごさざるを得ないことが毎年一、二度あり、これは今でも続いています。医者の診察を受けても原因は判らないと云うことです。不整脈も被爆後から続いています。
被爆後五十年経ちました。やっとこの文章が書けました。亡くなった恩師、先輩、友人、そしてその他多くの広島の犠牲者のことを思い出しています。ただただ御冥福を祈るのみです。
被爆五十周年を一ヵ月後に控えて
一九九五年七月六日
前略
先日は「未来への伝言」についてのお手紙、ありがとうございました。
私は林嘉男の長女で林文代と申します。
実は父は昨年、二〇一二年五月五日に八九歳で永眠いたしました。父が亡くなり、すでに一年少し経過いたしましたが、その後の雑事に追われまして、まだ原爆手帳の返却、東友会へのご連絡など、いろいろとできないままでおります。これから少しずつ行うつもりでおりますが、ご連絡など遅くなりましたこと、悪しからずご了承くださいませ。ご依頼の「承諾書」記入につきましては、父の代理として御返事させていただきたく存じます。
今回のお手紙で、父の体験記が貴祈念館で公開されていること、永久保存してくださること、今後多くの国内、国外の皆様にも御紹介いただくことなどを知りました。父の体験が少しでもお役に立てば、亡き父も、私たち家族も、大変光栄に存じます。つきましては、差し出がましいことと存じますが、学生時代に被爆した父がその後どのような人生を送ったかなど娘の立場から以下に記しましたので、父の手記の背景の参考にしていただければ幸いです。
父の「原子爆弾被爆体験の記」は、父の生前、執筆当時に私も読んでおりましたが、今回お送りくださった原稿を改めて読み直し、悲しみを新たにいたしました。父は戦時中の話など普段から家族に話しておりましたので、恩師のこと、学友のことなど、大体のことは聞いておりました。ただ、父も書いておりますように、本当に悲惨で強烈な事象については、心身の平衡を保つ防御作用が働き、本人も記憶の奥底に閉じ込めて生き抜いたのだと思います。父、母ともに誠実さを絵に描いたような人でして、私たち家族のあいだには何の隠し事もなく、父は母と私たち子供を何より大事にして生きてくれました。そのような父でさえ、おそらく本当に悲惨な体験については、私たちの心が傷つくかもしれないとの懸念から、また何十年経っても耐え難い思いの重さから、そしてたとえ父の最愛の家族であっても本当の悲惨さを言葉で伝えることは難しく、理解しがたいのではないかとの思いから、語らなかった、あるいは語れなかったのではないかと思います。
これは本人も書いておりますが、私が子供の頃からずっと後年になるまで、父は夏になると体調が悪くなり、何をする気も起こらず、寝て過ごしておりました。原因ははっきりせず、冗談半分に原爆病なんだ、サボっているのではないなどと言っておりました。同時に原因不明の不機嫌で憂鬱な気分が続き、家族は不機嫌さがひどくならないよう配慮しながら、ただ夏が過ぎるのを待つしかありませんでした。証明はできませんが、原因不明の心身の不調が被爆時期に重なったのは、おそらく偶然ではないと思います。また、父は八〇歳前後から腹部大動脈瘤、胸部大動脈瘤、脳梗塞、胃癌、心臓病など、立て続けに大病を患いました。その都度、これは原爆のせいだ、原爆は長年にわたってじわじわと身体を侵食するのだと申しておりました。それまでは倦怠感などに悩まされてはいましたが、これほど多くの病気にかかったことはありませんでした。最後まで、原爆は怖い、今頃になって襲ってくる、自分は原爆のせいで死ぬのだと申しておりました。
広島大学卒業後、父は数学者となり、大学教授になりましたが、一九六一年には渡米し、数年間アメリカの大学で研究者として過ごしました。その後も日本で大学教授として勤めながら、アメリカやカナダの大学や研究所に数年間滞在するなど研究者として生涯を過ごしました。七五歳で大学の職を引退した後も、亡くなる一年ほど前まで自宅で研究を続けておりました。原爆を投下したアメリカですが、父は数学者として自分の能力が発揮できる場として、そしてまた当時の日本にはなかった自由な雰囲気が強く、個人の個性や実力を認める環境を提供してくれる場として、アメリカの研究環境をとても高く評価しておりました。父の周囲のアメリカ人研究者の人たちも、大変友好的で良い人柄の人たちが多く、父は長年の友人を多く持つことができました。被爆体験者であるにもかかわらず、学者としての父は個人としてのアメリカ人に対して偏見や悪感情を持つことはなく、アメリカやアメリカ人の良い所は大いに評価する人でした。但し、戦争やそれに伴う理不尽な行為に対しては、アメリカ、日本に関わらず、強い義憤を生涯失うことはありませんでした。
父は渡米に際し、家族を伴いましたので、私も六〇年代前半の数年間、滞米生活を送りました。当時、中学二年生だった私は、世界史の授業で、原爆投下が戦争を終わらせるために必要だったこと、日本人は卑怯にも真珠湾を奇襲攻撃したが、アメリカは原爆投下をビラをまいてあらかじめ予告していたのだから正しいことをしたこと、原爆の被害者は数千人と少なかったが、もし本土決戦になっていたらより多くの犠牲者が米日ともにでただろうことなど、理不尽極まる話を聞きました。まだ英語が満足に喋れないので、それに反論することもできず、たとえ反論できたとしても、数十人いるクラス全員が白人で、唯一の日本人である私の言うことが理解してもらえるはずもありませんでした。常日頃父から原爆の話を聞いていた私は、帰宅後憤慨しつつ教室での出来事を父に話したと記憶しております。
私が最初に渡米した一九六二年からすでに五〇年が経ちました。私自身もその後大学教員になり、数年間アメリカで学生生活、研究生活を送る機会がありました。普通の市民の原爆理解はまだまだだと思いますが、以前に比べれば、広島の関係者の皆様のご努力により、被爆の現実を知るアメリカ人も多くなったと思います。何より嬉しかったのは、先日何気なく見ていたテレビ番組で、日本で外国人観光客が一番多く訪れる場所が広島であり、平和祈念館だと聞いた時です。チェルノブイリやスリーマイル島、さらには福島の原発事故などにより、原子力の恐怖が世界的に知られるようになったこともあるかと思いますが、多くの外国人観光客が広島を訪れ、原爆の現実について知ることができるのは、戦後早い時期から現在に至るまで、多くの関係者の方々が命がけでさまざまな形で御尽力くださったおかげだと心から感謝しております。
あらゆる戦争の犠牲者がそうであると思いますが、戦時中とはいえ、無辜の一般市民の日常生活を一瞬にして地獄に変貌させる原子爆弾という人類最悪の兵器の犠牲者となった人々の無念は、想像を絶するものです。何が起こったがわからないまま、学友たちとともに恩師の御遺体を捜して広島の町を歩き回った父は、偶然にも生き延びることができ、私はその御陰で生まれることができました。私は子供の頃から父の話を、聞く機会に恵まれましたが、それはあくまで家族の間だけのことでした。父の体験記を祈念館で公開していただき、また今後より多くの人々に読んで頂く機会を与えていただきましたこと、父も喜んでいることと存じます。父に代わりまして心よりお礼申し上げます。
八月六日の朝、一瞬にして命を奪われた多くの人々、そして生き延びても原爆症に倒れた多くの被爆者の人々のため、そしてその事実を知りたいと願う現在、未来の多くの人々のため、貴祈念館が今後ともますます御発展されますよう、心より祈念いたします。
草々
二〇一三年七月二四日
林 文代
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