学徒動員の私は、七月三一日病気になったので佐伯郡石内村の寮から広島市内の実家にかえりました。
八月六日、おばあちゃんと、親戚の女の子、近所のおばさん、私と四人で平塚の親戚の家がこわされるので、薪が不自由な時だったので大八車を引いて薪を貰いに行く途中、猿猴橋の上で被爆しました。爆風で住友銀行の前まで投げ出され、私は無意識に防火用水に飛び込んでおりました。気がつくと、着ていた服モンペイが焼け焦げて、白いスリップが見えていました。履物もなく裸足で一生懸命に家に帰りました。道路には物が飛んでいたり、四、五才位の男の子が倒れていたり、それはこの世の地獄の様で言葉では云いつくされません。どうして家に辿りついたのかわかりません。家も爆風で屋根が飛び何がどこにあるのかわからず、やっと鏡台を見つけて火傷には油がいゝと云ってポマードを姉がぬってくれました。家にいると危険なので裏山に避難しましたが時間が立つにつれて、顔面がはれて来て、目がつぶれて何も見えなくなりました。六日、早朝庄原に行っていた母が帰って来ましたが私が判らなかった程です。周囲は避難民でごった返し、暑いので臭気が立ち、どの様に表現していいのかわかりません。翌日家に帰りましたが数日して歩けなくなり空襲になっても避難出来ず母が一諸に死のうねと云った言葉が今でも脳裏に残っています。髪がぬけ火傷で顔の表皮がはがれ、眉もぬけ、肩、両手、足首もはがれ暑いのでウジ虫がわき痛いので泣いていました。思ひ出すだけでもぞっとします。
学校も三学期に登校しましたら、学友は、私が死んだと思ったので大変喜んでくれました。こんなに元気になれたのは、お母さんの必死の看護でした。
戦後五〇年、八月六日、原爆式典に初めて参加しましたが涙が出てしかたありませんでした。
戦争ほど怖いものはありません。平和を維持して地球平和を望みたいものです。 |