私は広島市の宇品の学校で被爆しました。一七才でした。その日は朝から雲一ツないよい天気でした。朝八時校庭の隅に作られた防空ごうの前に集まり先生から作業内容について説明を受け作業に取り掛かろうとしたその時いつものようにB29の飛行機の音が聞えてきました。眺めていると比治山方面の空に白い雲のような物が三つうかびました。何だろうと思って見ていたら急に目の前が、まっ赤になりました。しばらくして気が付いて見ると校庭に作られたいも畑のウネの間に伏せていました。しかも両手で目と耳をふさいで。おそるおそる横を向いて学校の屋根を見ると瓦がいくつも吹き飛んでいました。あたりはうす暗くなっていました。てっきり学校が爆撃されたと思いました。
それから三日間は後片付けに追われました。まわりには地上二メートル位まで黄色になっていました。土手の方に行くと道路のへりにはケガ人がほうたいをして寝かされ水をくれとさけんでいました。夜になると大火の様に空までもえ上って、まるで地ごくの様でした。ようやく電車が通い始めましたが車内の上半分は真黒いハエがビッシリとおおっていました。昼はもうもうと煙りが天高く上りうす暗くなっていました。異様なにおいがおおっていました。
焼野原になった広島は七〇年は草も木もはえないと言われました。そして五〇年、広島は見事に一〇〇万都市としてよみ返りました。
私も六七才何とか元気に今日まで生きて来ました。もう戦争は二度とゴメンです。核兵器のない平和がいつまでも続きますように。
最後に原爆で亡くなられた方の御めい福をお祈り致します。 |