一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
その日から東洋工業へ動員され、工場の責任者より仕事の内容をきいていた。左側窓にマグネシウムをたいたような閃光を感じる。講師が「大量生産とは」といった途端にものすごい爆風が襲い窓ガラスがとび、窓ぎわの人が負傷した。一瞬机の下に身をふせたが、すぐ大あわてで防空壕に入る。一時間后、「校舎内の御真影が危い」という教授の命令で、広島市へ向う。きのこ雲を見る。皮膚をたらした者、顔全面を白いくすりでぬった者など、物すごい形相の負傷者が続々と連なって歩いて来る。一老婆が、整然と歩く私達をよびとめて「学生さん、このカタキをとっておくれ」と叫んだ。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
幸い大した病気をしなかったが、一寸きづついた所がうむと、一ヶ月も二ヶ月もなおらないことがあった。栄養失調かとも思ったが、原因不明のまゝ終った。親戚の者が呉にいて、数日后広島に入り帰郷してまもなく毛が抜け始め死亡した。数日間救援活動をした私より条件はよいのに死んだので、驚いて血液検査をうけた。
結婚して妻が妊娠三ヶ月頃葡萄産だといわれ、子宮切除、その後子供はだめになった。原爆のせいとは思わないが、何となくすっきりしないで今に至る。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
援護法の要請をして、つくづくわかった。まだ前の侵略戦争の反省ができない政治家が多いこと。彼らはあの戦争はやむをえずやったのだと思っている。憲法に違反する自衛隊を何とか増大しようとしている。これでは原爆で死んだ者は永久に浮ばれない。戦犯的な軍人の恩給手当は湯水のように使いながら、原爆死にはお涙程度のカネしか用意しない。国家補償は絶対にかちとること、これがなければ死んでも死にきれない。
【吉兼実さんの「吉」の部首「士」は、正式には「土」です。】 |