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未来への伝言 被爆の体験と証言 
木村 正作(きむら しょうさく) 
性別 男性  被爆時年齢 27歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 崇徳中学校 独立鉄道第2大隊(線第13352部隊)(広島市楠木町四丁目[現:広島市西区楠木町四丁目]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部内地鉄道司令部広島地区鉄道司令部独立鉄道第2大隊(線第13352部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
広島市楠木町
崇徳中学校内臨時兵舎(木造)

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
八月六日八時十五分、何んの前ぶれもなく、突然真白い閃光に吹き飛ばされ失神した。自分から気がついて、一呼吸したがのどが焼きつく様に痛くとてもぢっとしてはいられなかった。その時は顔面、のど、胸、左手上膊(はく)から指先まで皮ふがむけて真白、筋肉が露出していた。皮ふが小さいのは、そのままぶら下っていた。体は火がついた様に熱つく痛かった。
 
命令で太田川の川原に集合するために、一般市民と一緒になったが、それはこの世の生地獄とは、この事かと思うほどの惨状であった。私はその後の黒い雨でずぶぬれとなり、やけどの化膿が早くなりのどのケロイドもそのためである。そして顔は達摩のようにはれ上った。それから小学校に収容され三日目に浜田市の日赤(陸軍病院)に入院出来た。

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
被爆による火傷が治ったのは二十二年頃になった。唇や耳たぶが最後までなおらなかった。あれから三十年後に咽頭腫瘍(がん)になったが、発見が早かったので一命は助かった。のどの放射線治療で唾液腺の分泌が止まり流動食しかとれなかったり、味覚神経が冒されて文字通り味気ない生活を三年間も体験した。次々と後遺症が出て病院で小児科婦人科以外はすべて診療の対象となった。現在も放射線科と耳ビ咽喉科は通院中である。この疾患では医師の指示通りの生活をして耐えた事と考へている。併しそれは想像以上の苦難な毎日であった。

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
あれから毎年八月六日がくるとまた一年生きられたと感謝していた。その間いろいろ筆舌につくせない悩みや、家族が親戚にも相談したと聞いている。とにかく被爆者は家族にも心配をかけているのが実状だと思う。
 
とにかく私の体験したことは世界の誰にもさせてはならないものである。そして平和の尊さこそ何物にも変らない宝物と感じている。この原爆の体験も何れは過去の物として忘れられる日が来るかも知れないが、それを思うと何となく切なくなるのは私だけであろうか。戦争は罪悪だ。絶対に反対する。そして核兵器のない世界を。 

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