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未来への伝言 被爆の体験と証言 
古山 スヱノ(ふるやま すえの) 
性別 女性  被爆時年齢 24歳 
被爆地(被爆区分) 長崎(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 長崎市竹ノ久保町[現:長崎市] 
被爆時職業 医療従事者 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
長崎市竹ノ久保町
ピカッと光ったかと思ったらファッとした感じを受けた。ガラスの破片がバラバラ降って来た。周囲は夕暮時の様に暗くなり家と言ふ家、山も全部炎上していた。

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
ピカッと来て物凄い音と同時にファッとした感じを身体に感じた。ガラスの破片がバラバラと身体に降りかゝり一瞬にして周囲が夕暮れ時の様に暗くなりました。防空壕に行かうと外に出ると家と言ふ家は燃え上っている。人々は右往左往して文化爆弾だと叫んでいる。
 
何が何だかわからず皆と一緒に山に逃げた。山もあちこち燃えている。途中私は衣服が無くなり裸。裸足になっているのに気付かず誰かゞ毛布を持って来て下さった。
 
炎のためなかなか防空壕に行けず山で焼け死ぬのかと皆で口走っていた。やっとの思いで防空壕にたどりついた。全身ガラスの破片がさゝり両腕に大怪我をしていた。翌日家族が探しに来て汽車が通る処まで歩いた。途中見た物は浦上川の河原に何百と言ふ人の焼け爛れた死人の山が続く。道路にはあちこちで焼け死んだ人がごろごろしている。中には未だ息があるのに焼け乍ら水に助けて下さいと叫んでいる姿はこの世の物でなく地獄そのまゝだった。

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
全身に怪我をして右腕にはガラスの破片が十個以上入っていた。又何十年以上たってから三個(二、三センチメートル)のガラスの破片出て来た。又右親指が伸ばず現在も台所で不自由している。又看護婦でしたので戦後職に復帰し親指が伸ばない事で職場の人に生まれつきなのかと言はれ涙が出ました。又ギブス施行中医師より貴女は指が不自由だから誰かと交替しなさいと言はれた事もある。又長女(昭和二十一年生れ)の出産で三人まで不具者で生まれ死ぬ。被爆の故かと思っても誰にも言えず又子孫についても心配です。
 
又私は心筋梗塞にて七年前にバイパス手術を受け現在も治療中。
 
又C型肝炎(被爆の副産物と言ふ人もいる)併発通院中。一生続くとの事です。

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
被爆者であるため心身共に苦しい思いの連続でした。
 
子孫の事もあり死ぬまで安らぎがない事と思います。
 
この様な思いは再び人々に味ははせてはいけない。再び繰り返してはならない。
 
この世からこの様な非人間的な核兵器は無くさなくてはいけない。
 
又どこかの国が原子爆弾を使用する時があるなら初め自分の国に落して惨状を見るとよい。どんな心情になるか味はってほしい。
 
私はこの様な身体なので会合にも思ふ様に行けず申し訳なく思っています。 

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