原爆投下時にいた場所と状況
静岡市大岩町
静岡高等学校仰秀寮 ラジオ 新聞で新型爆弾が広島に投下されたと知る
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
八月六日は静岡にいました。家族は広島市と疎開先の備後十日市を往復していたのでその安否が気になったが、軍需工場での仕事や切符の入手困難から、結局静岡を発てたのは八月一四日の夜であった。鈍行列車であちこちで長い時間の停車の末、八月一五日昼の終戦の詔勅をきいたのは名古屋、広島についたのは八月一六日早暁であった。駅から鷹野橋の我が家迄歩いたが段々と被災の度が強くなり、我が家もとても駄目だらうと暗い気持になり完全に焼けた我が家の跡に白い湯呑茶碗が数個残っていたのが強烈に印象的。そして太田川の畔に水を求めたのであらう牛の死骸と。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
備後十日市へゆく前に市内の親戚の焼けあとを一つ一つ訪ねて歩きその安否を訪うたが何もわからなかった。野宿をしチョロチョロと出ている水で飯盒で飯をたいて二日程市内をさまよい備後十日市へと向った。ここで従兄が大野の小学校に収容されているという情報を得、援助に向った。あの原爆特有のタダれた皮膚の患者が講堂にゴロゴロ寝かされており、一日一日とあの世へ旅立って行き一杯だった講堂に空きが出てきたのであった。
備後十日市に帰り、朝起きると枕の上に当時の坊主頭の短い髪の毛がパラパラと散っていた。これが被爆の証とは後で知ったことであった。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
私の場合は被爆の程度は一番軽い方ではなからうか。今六五才。こうして仕事も出来書くことも出来る。原子爆弾に対する知識ゼロの故にこそこうしたことが行われてしまったのだと思う。一方原子力に対するオソレが非常に強い。これは有限エネルギ源の地球を少しでも永もちさせるために、後からこの地球で生きる人たちのために、何とか安全な使い方を確立する必要がある。恐れることなくチャレンジする気持を被爆者として敢えて世に訴えたい。 |