崇徳中在学中、学徒動員令により、卒業後も、動員学徒として陸軍兵器廠で勤労にはげんでいた。朝礼を終えて、二号館の西口に着き、今日の作業の指示を待っていたときである。ものすごく激しい、いままでにない閃光がきらめいた。明るいダイダイ色のように感じた。
「何かが起きたぞ」と直感し、兵器庫の方へ走りこんだ。
その直後、爆風に吹きとばされた。兵器庫の中は、砂と埃で一瞬のうちに暗やみとなり、私はずっと奥の方へ転がされていた。さいわいにも負傷はしなかった。
左側を見ると、兵器庫の鉄の扉がひん曲り、その隙間から差しこむ光線が目に入った。それを目当てにかけ寄り、体をななめにして外に出た。
まだ屋外は砂埃でかすんでおり、遠方までは視野がきかない。西方の上空を仰ぐと、ものすごい煙が立ちのぼっている。「何かがあったな」と思い、兵器庫の2階にかけあがり、北側の窓から首を出してびっくりした。かつて見たこともない大爆煙である。
この頃、学友のなかでカメラに熱中している者がかなりいて、私もその1人であった。いつもズボンの後ポケットにしのばせていた。
思わずポケットに手がかかる。だが、ここは兵器廠内である。見つかれば銃殺ものである。市中においてでさえ、カメラを持つことは許されない時代で、とくに防諜にきびしかった。
しかし、手はカメラを取り出していた。級友の江田君かだれかに付近の見張りをたのみ、数分間のうちに4枚のシャッターを切った。
それが世界最初の原子爆弾の爆煙であるとは、夢にも思わなかった。その時は火薬庫の爆発ではないかと思った。廠内はたくさんの負傷者が右往左往している。2階にいた女子挺身隊員が、ガラスの破片で十数人負傷、中には重傷の人もいる。鉄筋コンクリート建ての油の倉庫では、油を積んだ鉄骨の棚が吹きとばされ、若い工員の1人は、それに頭をぶっつけ、油の中に顔を突っこんだ。それを引っ張り出して助けたが、数日後に死んだ。
午前10時頃であったか、動員学徒に対して、家に帰れる者は帰れとの指示が出た。電信隊、現在進徳高校の南側を通り、被服廠正門前付近で初めて倒れている婦人を見て身ぶるいをした。御幸橋、電鉄会社前の方は火災で通行できないと、すれ違う人から聞いたので、やむなく兵器廠に引返した。もうこの頃、無残な姿の負傷者が溢れていた。時間は、昼をまわり午後1時頃か。空腹にはなる、家のことも心配だ。
2時が過ぎたころ、三たび帰途についた。江田君と一緒である。こんどは比治山の南側の電信隊横を通り、鶴見橋を渡り、竹屋町か田中町の土手に出た。一面ただ焼野が原である。熱気にやられてはいけないと思い、江田君と防火用水槽で作業衣をビッショリにぬらし、頭からかぶって西へ向かった。
ようやく大手町の川土手、現在の平和大橋の所に出たときには、作業衣は熱さでパリパリに乾いていた。ここまで来る途中の惨状は、もう口では説明しきれない。川下の水主町あたりの元安川の砂浜を見ると、何十人か何百人かの負傷者や火傷者が、悲鳴とも何ともつかぬ声をあげて、苦しんでいる。
中島町の方へ渡りかけたとき、将校と2人の兵士に出会った。土橋方面の様子を聞くと「お前たちはどこに帰るのか」という。大芝町の自宅へ帰ると答えると、いまから基町の師団司令部の様子を見に行くから、その方から帰ったほうがよい、一緒に行こうとさそわれ、そこから土手下の川べりを歩いて元安橋へ向かって歩いた。元安橋の土手にあがってみると、電報配達の人が、自転車にまたがったまま、黒焦げになって倒れている。また、母親が乳飲み子を負い、もう一人の子を胸の内に抱いたままで死んでいた。
ここから、産業奨励館の残骸の立つ土手下を通って相生橋東詰めに出た。何十人か、それ以上の人が倒れている。馬も焼けて火ぶくれになっている。
相生橋の上も惨憺たるありさまである。ここで将校たちと別れて左官町に出た。電車通り沿いに歩いて十日市町から国鉄横川駅の東側に出た。そこから大芝の自宅の方を見ると焼野が原である。さらに進み大芝国民学校裏門近くから、煙にかすんだわが家が見えた。一気に走った。
家屋は、爆風でひどくやられ、ただあるというだけであった。家には骨折で寝ていた父と姉が2人。そして近所に嫁いでいる姉がいたが、いずれも無事であった。3番目の姉は、日興證券に勤めていたから死んだろうと思っていたが、前日に建物疎開作業に出て気分が悪くなり、出勤していなかったため、命拾いをした。
わが家も、二度か三度火がついたが、近所の人やその近くにいた兵隊、あるいは自動車学校の人などの消火で火災をまぬがれたと聞いた。
6日の夜は、ほとんどの人が公園で野宿した。私は壊れたわが家の中で、蚊帳をかむり、日本刀を抱いて一人で寝た。近所の人びとは夜遅くまで、焼跡に放水して延焼防止につとめていた。そのため、大芝町のほとんどが火災をまぬがれたのであった。
終戦後、母の実家、現在の安芸町福田に行き、疎開していた薬品でフイルムを現像し、小川で水洗いした。その中に、兵器廠の窓から撮影した「原子雲」4枚があったのである。
出典 「反核・写真運動」編 『母と子でみる 7 原爆を撮った男たち』 株式会社草の根出版会 1987年 57~59頁
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