8月6日午前8時頃中隊事務室で書類に目を通している時、外で電気がショートした様な青い光がパットして何かと思って外に出ようとした時パーンがらがらという爆風でそこいらい一面砂ほこりが舞い上がった。外に出て宇品の方を見ると街の中心付近からピンク色の美しいきのこ状の雲がもくもくと立ち上がっている。
急いでカメラを取ってきて映した。当時広島は要塞で写真撮影は禁止されていたので、原爆の地上からの写真は余りないと思う。幸いにしてフィルムが手に入ってカメラに入っていたので撮影することが出来た。部隊の被害は窓硝子が割れたり屋根が剥がれたりしたがたいしたことはなかったが、市内の部隊が全滅したので午後から負傷者が続々運び込まれてきた。驚いたことに原爆直後の黒い雨で皆真黒になっていた。夜に入って救援隊を組織して上陸用舟艇で太田川を遡り己斐橋付近を中心に負傷者の救援と死体の収容を行なった。
最も気の毒なのは女子学生と中学生の報国隊で、近くの町から徴用され広島に入った時に被爆したので、その悲惨さはとても文章には表せない。原爆の中心地帯は総てのものが蒸発し怪我人の収容も死体の後片ずけもなかったので爆心地域での作業はなく、部隊員の放射能被害がなかったのは幸いだった。数日して腐敗が酷くなってきてようやく焼却が許可され、破壊した家屋の木材を集め火葬を行った。この頃になると死体を運んだ手をろくに洗いもせずに握りめしを食べられるようになり、また死体の身元は殆ど分からず仕舞いであった。
約1週間の後、金輪島に帰ってきた。まもなく8月15日の終戦、ようやく生きてかえれるという喜びで技術将校宿舎では、なけ無しの酒を持ち寄って盛大な祝賀会を催した。
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