●被爆前の暮らし
私、福田末子は1940年(昭和15年)4月25日、南観音町の自宅で生まれました。父、母、兄が二人、姉が三人、同居の長兄の嫁を入れると九人家族。私はその名のとおり、わが家で一番最後に生まれた末っ子です。
父・千吉は韓国から日本へ渡ってきました。始めは韓国へみかんを船で運ぶ仕事をしていたそうです。その後、農家の手伝いをしていました。主に、観音地域の名産、観音ネギを育てていました。
戦時中に次兄はフィリピンに出兵し、三女・静子は楽々園にある兄嫁の実家に疎開していたので、原爆が投下された時は七人で暮らしていました。
原爆投下時、5歳だった私は、自宅にいました。
●原爆投下の日
1945年(昭和20年)8月6日の朝、私は朝ごはんを食べた後、姉・春子と南観音町の自宅で縁側に座っていました。突然、ドーンという音がして、その直後の記憶が全く残っていません。家は爆風で一瞬にして崩れたそうですが、そこからどうやって逃げ出したかなど全く覚えていないのです。
南向きの縁側にかかっていた屋根が深かったこともあって閃光も浴びず、やけどなどのけがもほとんどせずに済みました。縁側の前に道路があって、そこで立って話をしていた男の子は亡くなったと聞いてます。
爆音の次に覚えているのは、家の近くの畑で中学生くらいの男子が、目に長い竹が刺さったまま歩いているのを見たことです。ここから被爆の記憶が再開するのは、あまりにも悲惨な場面に直面し、強烈に頭に焼き付いたからかもしれません。
私はこれまで被爆体験を語ることをしてきませんでしたが、その理由の一つとして、「そんなひどい話があるわけないだろう」とか「うそをついているんじゃないか」と言われるのではないかという恐れがありました。原爆投下後に起きた現実は、まさに人の想像を超えるものだったのです。
私は母とふたりで自宅の北西方面、旭橋がかかる山手川へと逃げました。縁側で一緒にいた姉の春子が、被爆後どう避難したかは全く覚えていません。途中、黒い雨に降られ、私の頭はぬれてコールタールにまみれたようになりました。
旭橋手前にあった農家にたどり着くと、母はそこにいるようにと私に言って、自宅の様子を見に帰りました。その農家は山手川に面していて、人がどんどん流れてくるのが、縁側から見えました。私はその時、「まるでアリが死ぬように人が死ぬんだ」と思いました。母を待っている間も、米軍の飛行機が飛んできて、とにかく怖かったことを覚えています。
その後、長兄・静脇の妻・玉子が農家にやって来て、ふたりで潮が引いた山手川を歩いて渡りました。川岸に着くとトラックが止まっていて、大勢の被災者が乗せられていました。私たちはトラックの一番うしろに乗せてもらい、兄嫁・玉子の実家がある楽々園(現在の佐伯区、爆心地から約10キロ)へと向かいました。トラックに乗った被災者は、皆ひどいやけどを負った人ばかりでした。ちょうど目の前にいた男の子は、やけどでひと皮むけて真っ赤になっていました。トラックにはそのような重傷者が重なっているように乗っていて、たくさんのうめき声におおわれていました。
その後、長女アヤ子ひとりを除いて他の家族も皆、楽々園へ避難してきました。
●長女・アヤ子の死
当時16歳だった長女・アヤ子は、学徒動員で市内で勤労奉仕中に被爆し、行方不明になっていました。平良国民学校(平良村、現在の広島県廿日市市)で寝たきりでいたところを兄嫁・玉子が見つけ、楽々園の実家へ連れ帰りましたが、被爆から2週間後の8月20日に亡くなりました。
アヤ子は、やけどなど外傷がなかったにもかかわらず、脚の方から次第に体が腐りだし、母が、わいてくるウジ虫を箸で取って看病していました。亡くなる前に、桃が食べたいと言うので、父が探しに行きましたが見つからず、結局、ミカンの缶詰しか食べさせることができませんでした。それを悔やんでか、母はその後、桃を食べようとしませんでした。
アヤ子の亡きがらを荼毘に付すために、父がリヤカーを引き、母が後ろから押しながら救護所へと進んでいきました。母はずっと泣いていて、ついに途中でついていけなくなりました。母はそこにあった大きな石に座って泣き続け、私もそばに座って母が泣くのをずっと見ていました。
●三女・静子の被爆状況
当時9歳だった三女・静子は、原爆投下前から、兄嫁・玉子の実家がある楽々園に疎開していました。疎開先での生活が寂しくなり、8月5日に南観音町の家族の元へ戻ったのですが、一泊すると父に帰れと言われ、仕方なく己斐の駅前を歩いている時に原爆が投下されました。何事かと思い、すぐさま南観音町の自宅へ引き返さねばと橋を渡ろうとしていたところ、知り合いのおじさんに会い、「静子、家に戻るな!」と言われ、とぼとぼ楽々園まで帰ったそうです。
●原爆症について
被爆後二年くらい経った時、私は、急にたくさん鼻血が出て鼻の中で固まり、起き上がれないほどつらくなりました。三日間くらい寝たきりだったと思います。母はヨモギを採ってきて、潰して私の鼻に詰めて治してくれました。
ずっと貧血症が続いています。最近、甲状腺の機能も低下しましたが、お陰さまでこれまで大病はせず暮らしています。
●終戦後の暮らし
戦時中の生活は楽ではありませんでしたが、戦後の方がおなかをすかせていました。父が原爆症で寝込むことが多くなると、家計は苦しくなりました。少し回復すると、父は仕事に復帰していました。父も母も広島市内の道路や公園を整地する仕事に駆り出され、日銭を稼ぐような毎日を送っていました。
●被爆者であること
被爆者である事で差別を受けたことはありません。母から被爆したことを言ってはいけないと言われ、誰にも話さなかったからです。私は19歳で結婚し大阪に住んでいた時に、兄嫁の玉子に世話をしてもらい、被爆者健康手帳を取得することができました。結婚してからも長い間、家族にすら被爆したことを伝えませんでした。私の被爆者健康手帳を目にしたことがある夫は分かっていたと思いますが、聞かれたことはありません。
●キリスト教徒として
韓国がルーツの私たち家族は、私の代で9代続くクリスチャンの家系です。父はとても敬虔な信者で、終戦直後の混乱期も日曜には教会へ行くように言われました。家の近くに観音教会ができるまでは、幟町の教会まで、約4キロの道のりを歩いて通いました。
原爆が投下されてしばらくの間、幟町の教会があった敷地には、4畳ほどの小さなトタンのバラックがぽつんと立っているだけでした。被爆の年、昭和20年の暮れから、そのバラックでミサが捧げられるようになり、私も出席したことを覚えています。
当時の広島は、東京と並ぶイエズス会の布教活動の拠点で、外国人の神父さんが大勢いらっしゃいました。中でもチースリク神父は若くてとてもやさしい方で、日曜学校では公教要理等を親切に教えてもらいました。日曜学校の後、がれきの街を私たち姉妹がチースリク神父と一緒に仲良く歩いているところを撮影した写真が残されています。
幟町教会の主任のラサール神父は、父が原爆症が出て家で療養していると、古びた自転車に食べ物をたくさん積んで、ちょくちょく家まで来てくださいました。当時は父が普通に働けず、わが家はとても貧しかったので、本当に助かりました。
●次世代へ平和の思いを
私の5人の子どもたちは被爆二世になりますので、社会人になる頃にその事実を伝えました。子どもには今でも年に一度、必ず定期健診を受けるように言っています。私が被爆者であることが、子孫に影響しないか今でも不安です。
あの日、広島で起きたことが二度と繰り返されないようにとの思いを込めて、今回、私が経験した事を体験記として残すことにしました。次の世代の人たちに平和の尊さを伝えるために、機会があれば可能な限り、私が体験したことを語っていこうと思っています。 |