昭和20年当時、私は広島鉄道局に勤めていた。7月になって、空襲が激しさを増し、軍需工場のあった呉は焼夷弾攻撃を何度も受けるようになった。広島市内もB29が偵察に来るようになったので、局員は分散疎開することになった。
私と弟は母の実家のある山口県に疎開した。私は、職場が山口駅近くだったので、小郡の近くの四辻の母の妹の嫁ぎ先に世話になった。大事な書類も山口駅の近くの広島鉄道局の分散所に局員がそれぞれ持っていった。(後に終戦日に重要書類はすべて破って焼却した。)
そして、8月6日
広島に原爆投下。実家が広島の人はすぐに広島に帰るようにと上司に言われた。弟は、父方の祖母のいる柳井に疎開していた。母はお米など食料を調達するために防府の母の実家に行っていた。一人広島に残っていた大好きな父のことが心配だった。
山口駅には、数の制限された切符を求める長い列ができていた。私は、鉄道局に勤めていたお陰でパスがあったので、それを使って、次の日7日、広島に向かった。伯父が一緒に行くと言ってくれたが、切符が手に入らず、一人で向かうことになった。
広島から二つ手前の己斐駅(現在の西広島駅)で下車し、路面電車の線路に沿って紙屋町に向かって歩いた。目に映るのは、血だらけの皮膚が垂れ下がった人々、目がとび出した人々が右往左往している光景の連続だった。「水、水・・・」といううめき声、水を求めて川に飛び込む人、人・・・。正に地獄絵図だった。それでも、歩いている自分は狂っているのかもしれないと思った。
もうもうと立ちこめる噴煙に気分が悪くなり、ハンカチで口を覆って歩いた。煙や埃で、もあもあとした視界の中を線路にそって実家の方向に向かってひたすら歩いた。
途中、太田川を線路が横切っている所にきた。枕木がちょっとだけくっついているような場所もあり、怖くて前に進めずしゃがみ込んでしまった。すると、見知らぬおじさんが、「こんな所にしゃがんでいたらだめだ。」と言って手をつないで一緒に渡ってくれた。
川岸には、川から引き上げた遺体が数限りなく並んでいた。身元の分かる遺体は、足の裏に名前が書いてあった。目の前の光景が何なのか、思考は停止し神経が麻痺してしまい呆然と立ち尽くした。
ふと我に返った。その後は、父は大丈夫だろうか、家はどうなっているだろうか…そのことだけを考えようとしていたように思う。
電車の線路を頼りにただ歩き続け、実家や、広島大学、日赤病院のあった千田町あたりに着いた。実家は勿論、跡形もなくなっていた。日赤の門の前で、馬が四足を上げ脅えたように天を仰いで死んでいる姿が今でも鮮明に脳裏に残っている。
ボーとする頭で、父がいるだろう宇品に行ってみようと思った。
その日、父が出かけているかは不明だったが、絶対行っているはずだ、そこに父はきっといるはずだと自分に言い聞かせ、広島駅に戻った。広島駅から宇品駅まで動いていた汽車に乗って向かった。そしてまたロボットのようにただ黙々と歩いた。
父はいた。「椎木さん、娘さんが・・・」と、どなたかに父のいる事務所に連れて行ってもらった。父に会えた。嘘のようだった。嬉しかった。「皆、無事でよかった。」と喜び合った。その時、母は防府にいると父と私は思っていた。私は、放射能のせいか、むかむかして吐き気がひどく、勧めてもらった食事もまったく受け付けなかった。
父も国鉄の家族パスを持っていたので、父と一緒に山口へ帰りたかったが仕事の関係で帰れず、私は一人で破壊されていなかった宇品駅から広島駅行きの汽車に乗り広島駅で山口行きに乗り換えた。宇品駅で、私の肩に手をグッと置いた時の父の顔を思い出す。
山口に向かう途中にある弟のいる柳井に寄った。そこに思いがけず母がいた。防府の母の実家では、8月6日の勤労奉仕に出るため、朝、広島に向かった母が、死んだと思っていた。ちょうど原爆投下時に着くことになっていた汽車に乗った母。「かわいそうなことをした。」とお経を上げていたそうだ。ところが、実は、汽車が1時間遅れて、岩国に着いた頃原爆が落ち、母は柳井に引き返していたのだった。
母の実家から、広島に戻った母が死んだとの連絡の電話があった時、「じゃあ、ここにいるのは、誰じゃろうか。幽霊じゃろうか。」と父方の祖母の口から冗談が出たそうだ。
父の無事も伝え、皆安堵した。
その後、父、母、私、弟は防府の母の実家にお世話になることになった。広島市に残っていた友人やご近所の方々は、原爆でほとんど亡くなってしまった。父に聞いた話だが、包帯の巻かれた火傷跡に蛆が湧き、蛆をお箸で取りながら「もうだめだ・・・」とつぶやいたお隣のおじさんも数日後に亡くなったそうだ。「かける言葉もなかった。」と父は落胆し悲しんでいた。大切にしていたオルゴールも沢山の着物も家族や友人の写真がいっぱいのアルバムも女学校の成績表もみんな消えた。大切な人、物がみんなみんな一瞬で無くなってしまった。
その悲しみは長い間癒えることはなかった。
たったひとつの爆弾で、あれだけの人や建物が破壊されるなんて、信じられなかった。その前に、広島大学の校庭にあった、爆弾の落ちた大きな穴は見たことがあったが、原爆は比較にならず、想像を絶する光景だった。当時は、なにが起こったのか分からなかった。
被爆後、広島に様子を見にもどった父は、その後も体調が優れず56歳の時白血病で亡くなり、母は76歳の時すい臓がんで亡くなった。私はよく貧血を起こした。結婚し5人の子どもに恵まれたが上の二人は生まれてすぐに亡くなり、三人目に息子と次に二人の娘に恵まれた。今は命の危険に晒されることなく、子どもたち孫たちに囲まれて平穏に老後を暮らしている。戦時中のことを思うと信じられない毎日である。
テレビ、新聞などで世界の不穏な状況を見聞きするたびに、平和は、ただあるのではなく、日々守っていくものであることを痛感する。一人ひとりの平和を守ろうとする意識と国の正しい判断で、決して戦争はしてはならない。一部の人間の私利私欲のために、戦争はしてはならない。いや、どんな理由があっても戦争は絶対にしてはならない。誰も幸せにならない。声を大にして伝えたい。 |