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当時の思い出 
藤本 忠義(ふじもと ただよし) 
性別 男性  被爆時年齢 21歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部船舶整備教育隊(暁第19809部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
昭和二〇年八月六日午前八時すぎ、朝礼を終えて営庭を歩いていた。
 
突然生暖かい閃光を浴びたかと思うと物凄い轟音、無意識のうちに両手で耳を押えて兵舎に駆け込んだ。広島の空を見ると真夏の入道雲のような真白い雲の柱。上部の方でピンクの炎がムクムクと成長して輪のように横に広がり、まるでキノコのような形。「美しい雲だな!」と思った。ガスタンクか火薬庫が爆発したのではないかと話し合っていた。
 
私がいたのは安芸郡坂町鯛尾で船舶整備教育隊。爆心地から五キロメートルは離れていたと思う。日頃は静かな瀬戸内海も細波が立った。食卓に置いてあった茶瓶が爆風で飛び上ってマッチの上に乗ったという話が伝わってきた。アメリカの新型爆弾で七、八〇年は草も生えないそうだという噂も広がった。
 
広島の町は西からも東からも火の手が上がり、町全体は燃えている。ポンポン舟で枯木のようなものが運ばれて来た。人間だ!被爆して黒焦になっている人だ。焼け爛れ、皮膚がボロ切れのようにぶら下って運ばれてくる被爆者もいた。市内電車の中では吊革を持ったまま死んだ人もいるという広島から来た人の話。
 
運ばれてくる被爆者を収容する部屋がない。将校集会所を開放。毛布や蒲団は勿論ない。葦で編んだ炭俵を広げてその上に被爆者を寝かせた。閃光で全身焼け爛れている被爆者をである。治療といえば白いチンク油を塗るだけである。「兵隊さん、助けてくれ」呻く声。「兵隊さん、水をくれ、兵隊さーん、水」と、喘ぎ喘ぎ哀願する声。「今水をやると死ぬかも知れないからやったらあかんぞ」。心を鬼にして「頑張れ」と、声を張り上げた。二人、三人と事切れてゆく。当時、山の側面に防空壕を堀るのが兵隊の一つの仕事でもあった。この穴の中に遺体を運び、安置した。
 
一週間程して広島市内に救援に行った。観音寺本町、舟入町、紙屋町等に入った。川には流木にまじって人や馬の死骸がパンパンに脹れあがって浮かんでいる。焼け崩れた家屋の下に遺体を発見した。腐乱して紫色に脹れあがっている。収容するために手を触れると「ズルリ」と皮がむけた。思わず合掌、ご冥福を祈る。正に凄絶極まりない阿鼻叫喚の地獄絵であった。
 
その後、数日して部隊は海田市に集結。静岡を経て近海の島に前線要員として転進するのだと漏れ聞いた。八月一五日。正午に重要な放送があるということで待期。よく聞き取れなかったが天皇陛下の終戦の放送であった。やっと戦争が終ったんだと思った。
 
後になって広島の原爆資料館を訪れた。自分が瀕死の重傷を負いながら嬰児にお乳を飲ませている写真があった。母性愛の崇高な姿に眼の当り接して唯唯頭の下がる思いがした。
今でもその姿が脳裏に焼きついて忘れられない。
 
復員して間もない頃は、広島駅を通過しただけで被爆したという報道があり、発病しないか心配であった。自覚症状はなかったが、定期検診での白血球の増減に一喜一憂。
 
最近になって各種癌の検査を受けたが異常なし。当初結婚して正常な子供が生まれるかどうか人知れず随分心配もし悩みもした。幸い娘二人は健康。其其に男女各一名ずつの孫が授かり、すくすく成長している。
 
神仏のご加護か戦後五〇年健康で生かされている幸せをしみじみ噛締めている。この喜びを今後とも社会生活に生かしていきたいと思っている。
 
亡くなられた方々のご冥福と、今尚闘病生活をされている方々の一日も早いご快癒を祈り続けたい。
 
戦争はもとより、核兵器廃絶を訴える多くの人々や国々の悲願を無視して、繰り返し核実験を強行する国のあることに断腸の思いである。
  

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