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被爆体験について 
近藤 節子(こんどう せつこ) 
性別 女性  被爆時年齢 11歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市南観音町[現:広島市西区] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 本川国民学校5年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
当時私の自宅は、広島市新市町(原爆ドーム西側二五〇~三〇〇メートル位の所)に在り父博、母スミエ、姉弘子と私の四人家族であった。父は広島図書に勤務し母は家事、姉は進徳女学校、私は本川小学校五年生であった。

原爆投下の当日は空襲警報の発令はなく、父は南観音の広島図書に出社し、母は何時ものように家事、姉は学校が休みで自宅で自習しており、私は父親の弁当を持って広島図書に行った。丁度その時原爆が投下された。一瞬の出来事で何が起ったかわからなかった。しばらく立って見ると火災の起った広島図書から誰かに抱きかゝえられて防火用水の所に居た。しばらくして父親が顔から血を流し乍ら私を助けて呉れた。しかし周囲至る所が火災で逃げる所が無かった。多くの人の悲鳴や人の名前を呼ぶ声で何が何んだか分らなかった。そのうち皆で川に行くと安全だと聞き血まみれの父に抱かれて川に行った。しかし川も人が一杯で仲々水が貰えなかった。でも火災からは一応逃れる事が出来た。父親は顔のけがを水で流し何とか自宅迄帰る事を考えていた。しかし約一キロメートル以上歩く必要があること、私の家は爆心地に近かった為か本川小学校の方には川伝いに進むことが出来なかった。しばらく沈火を待つ以外に仕方がなかった。食べられる物がなく川の水だけで夕方近く迄過した。夕方に成って兵隊さんの誘導で自宅にたどり着いた。家は全壊し殆んど焼失であった。姉は倒壊家屋の下敷になり火傷で無惨な死となった。母親はどうにかはいだして火傷を受け乍ら橫の川迄たどりつき救援を待っていたそうです。

当日夜多くの救援隊が入り、私達は広島の北部安古市町に移送されました。しかし食糧も医療も手当が充分に当らず、二~三日川原で過して居り給食して貰いました。

幸いに親戚の人に見つかりそこに身をよせることゝなりました。母親は日毎に苦しみが増し八月末とうとう息を引き取ったのです。姉の亡骸は広島の川原で合同の火葬を受けたと聞いており、母と姉は今も安古市にねむっているのです。私と父は二年后に安古市を離れ五日市町に移り、父も三五年前他界し今は私のみ残っている状況です。思えば日本軍国主義が原爆を呼び広島、長崎五〇万人の幸せを灰にしたと言えるでしょう。

(追記)五〇年過ぎた今、厚生省は忘れようとしている悪夢を再び思い出させ事務的に体験保存資料とするとか、もっと前に成すべき事がたくさん有ったと思っている。大変残念です。そのようなことが日本官僚と言われる欠点ではないでしょうか。
  

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