当時、国民学校五年生でした。昭和二十年八月三日、縁故疎開先(母の実家賀茂郡東野村)から夏休みを利用して帰広していました。その翌日、父は商用で関西方面に出掛けて行きました。八月五日の深夜から八月六日に変る時刻頃、空襲警報発令のサイレンが鳴り、母と共に家の前にあった防火用水にポンプで水を満杯にくみ上げました。
まもなく警報は解除になり、寝付く時に母が「万一の時にはうちの大切なものはこれだから持って逃げるのよ」と押入れの上段フトンの下にある袋物を教えられました。
そして翌日、母は父の実家のあった平塚町に家の立ち退きにより家財の移動の為、大八車を引いて朝七時頃出掛けて行きました。その時家には当時三才の弟がおりましたので、私と弟の朝食の用意をし、弟の子守りと留守番を依頼されました。
私の帰広した三日から、母は昼頃には帰る予定で連日二つ、三つと家財を運んでいました。六日の朝、出掛ける母にその日にかぎって弟を背に「早くかえって・・」と云い乍ら見送りました。家では遊びに来てた隣りの女の子(当時六才)と私、弟の三人で縁側でラジオを聞き乍ら日本地図を広げ遊んでいました。ラジオは敵機襲来の警戒警報、空襲警報を報じ、しばらくして解除を報じた記憶があります。
それからまもなく運命の八時十五分、晴天の空に一せんの青白い光、何事かと思い空を見上げ何にも変化もないのに変んだなと思った瞬間、ものすごい爆風で三人共建物の下敷になり、這い出ようとまわりを見渡したが壁土等のほこりで目が痛くて何も見えず、数分か、十数分かそのままじっとしていました。
その後、どの位経過したのか、まわりがうすぼんやり見える様になり、弟、隣りの女の子の泣く声が聞え、必死に這い出し、弟、隣りの女の子を救助して表通りに出ました。表通りは頭、顔、手足から血を流した近所の人達が生存を確かめ合い、各々出掛けている家族の安否を不安そうに狂気のように気付かっていました。その時点では、人々は近くの軍需工場に爆弾が投下されたものと判断していました。
その時誰れかが頭上真上の拡大に拡大を続けるキノコ雲を気付き、口々に「あれは、なんだ」と・・
その頃から市の中心方面から、全身焼けただれた人の群れが切れ間もなく通過し、避難して行きました。私はその群れの中に母の姿を追い求め必死でした。一、二時間位母を待ちましたが姿はなく、泣きべそかきうろうろしている時、隣り組の組長さんの指示で女性、子供は一キロ位離れたブドウ畑に避難させられました。
その日の午後に帰広した父が、隣り組[の]人達の協力を得て全身焼けただれ、比治山に横たわっていた母を見付け出し担荷にのせてつれ戻ってきました。一見した母は識別出来ない程焼けただれ、ふくれ、わずか焼け残ってまつわり付いた見覚えのある衣服と呼びかけに答える返事に母を確認しました。でも、この大変貌、光景は子供心[に]目にこわくて直視出来ませんでした。
父をはじめ近所のおばさん達も懸命に看護しようとしましたが、手のほどこすすべもなく、ただウチワで全身をあおぐだけでした。
ほどなく母は、父や近所の人達に子供達(私他三名)の事を頼み、要求した水をヤカンの口から一気に半分近く飲みほすと、まもなくこときれました。
翌日、父と二人で板切れを集めて作った棺桶に入れ、川沿いの土手に穴を掘って火葬にし、その穴に埋めました。
木切れの燃料では死体は完全には焼けず、そばに付いていていくつもいくつも木切れはほうり入れました。足もと側で木切れを入れている時に、母の足が焼け乍ら棺桶をつき破って目の前にのびて来たのは今でも脳裏にやきついています。
今思えば数奇な運命を感じます。
一.疎開先の姉、妹、私の内、私のみ帰広していた事
二.前夜(五日)空襲警報発令の時、非常持出品を教えられた事
三.当日(六日)にかぎって弟を背に途中迄見送った事
四.母と共に私に手伝いの同行を求めなかった事 |