私の被爆五〇年 一九九五、一一、一
大東亜戦争末期、一億玉砕本土決戦目前の昭和二〇年八月私は、陸軍歩兵第三二一連隊、連隊砲中隊に所属、広島県賀茂郡原村に駐屯、八月六日練兵場へ行進途中「西方に敵機B29!」と叫声に、「伏セ」の号令。時は八時一五分、瞬間「ピカッ」と強烈な閃光、巨大な火の玉。一瞬西の空にも太陽が。ぬける様な青空に煌く星の様に青白い光が輝いている。まさに「青天のヘキレキ」。赤黒い巨大な筒が天に向って突き上る様に真直に物凄い勢で昇っていく。「ヅヅンー」と万雷の様な轟音。見るみる間に、澄きった青空に巨大な「キノコ雲」が発生。
正午帰営すると、「広島市に新型爆弾投下、市内大混乱」との情報。夕方即死者六万人と発表、だれ言ふとなく「ピカロク」と命名。八日から一二日まで命令により、我が中隊は爆心地の近くで死体処理作業。周辺は全部一面に灰。死体は「火葬場の窯」から出した様に白骨化して、頭蓋骨だけが「ジクジク」していた。石造りの建物がぽつんと残って、住友銀行広島支店の玄関の御影石の側壁に、「人の姿」が黒く焼付いていた。太田川・元安川には、赤黒く焼タダレ水ぶくれの死体が、川一面に浮び異臭を放って、正に「地獄絵」生きているものは死体の下に泳いでいるクラゲだけ。
宿泊は牛田町の半壊家屋の軒下に、汗と灰と埃りまみれの作業衣のままで「ゴロネ」原爆の「放射能」を含む死の灰漬であったと判明したのは後のこと。五日目頃より下痢症状、医務室には薬などない。八月一五日終戦。
九月二三日復員したが、下痢も慢性化、体重も四〇キログラムを下廻り、正に敗残兵の惨めな姿で、シラミを同伴で我が家の玄関へ。畑作農家の収穫の秋、戦後の食糧事情逼迫に休む間もなく、家族と一緒に働く、貧血で倒れると其のまま、畑でもどこでも、所かまわず暫く橫になって休む。
春から夏にかけて、頭痛か肩こり、体がなんとなくだるい。節ぶしが痛む。鍬を持つ手にも力が入らない、困った。箸や鉛筆が指の骨で「ジカ」に持つ感じ。働く気力も出ない、医者は「カッケの様でも、神経痛の様」でもあると、ビタミン剤等の注射だけ。
ハリ灸・マッサージなどの治療を受けて、一〇数年。これが所謂、「原爆ぶらぶら病」なのだ。生活のためには働くしかない、三二才の時、供出用の麦俵六〇キログラムを肩に担いだ途端にギックリ腰だ。働けない又駄目だ。放射線の影響で骨か筋肉が脆いのだろうか。三〇数年たった今でも、「変形性腰椎症」で治療中。家族に支へられての生活である。あの時の戦友達も「多発性骨髄腫」で原爆症認定の人もいる。其の他の癌や肝臓機能障害などで死んで行く。
五〇年を過ぎた今日、いまだに核実験をつづける国々がある、遺憾である。地球上から核兵器は廃絶すべきである。
「汚れのない、住良い地球を。」子孫のために残したい、強く念願する。
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