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被爆体験について 
守屋 和郎(もりや かずお) 
性別 男性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 鶴見橋(京橋川) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島第1中学校 3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
当時、広島一中三年だった我々は、三クラスが学徒動員により東洋工業(現マツダ)で海軍機のエンジンのピストン製作を行っていた。

国内各地で空襲がはげしくなり、広島市内でも防火のため家屋をとりこわし、防火帶(今の一〇〇メートル道路)を東西に作るため、三クラス一五〇名が奇数日と偶数日の組にわかれ東洋工業から市内に帰り家屋の疎開作業を行っていた。

八月六日、鶴見橋西詰の土手の上で、作業の説明をうけていたとき被爆した。

左斜目方向でオレンジ色の光を感じた後左顔面を丸太でなぐられたような衝撃をうけ気絶した。

何分か何時間かわからないが、学友の逃ろという声で気がつくと、真夏の太陽は消え、夕暮れのようだった。

馬が馬車をひいたまヽ狂ったように走ってくるのを見てとっさに身をかわし、鶴見橋を渡り比治山に逃げた。

橋の上は欄干などが散乱し、足をとられながら夢中で逃げた記憶がある。比治山に入ったとたん、霧がはれたように緑が美しかった。

山中で老夫婦から、学友五名とも顔面を火傷し皮フが灰色になり、たれ下っているのを見て、油をつけてもらった。

すこし上ったところで市内を見ると、西の方は十数ヶ所から火災の炎と煙りが上っていた。家は上から圧倒されていたので上からは壊れているようには見えなかった。

そのうちに女学生(一年くらいか?)や一般の人がどんどん逃げてきた。みんな衣服はやぶれ火傷し、頭の割れた子供をおぶったお母さんが「もう少しだよ」といいながら山を越えていった。女学生は「お兄さん水をちょうだい」と言うが水はなく、山の向うにはあるからガンバレというのがやっとだった。

五人で相談し、南の翠町にある一中の寄宿舎に向うことにし山を降った。

途中、電信隊の兵隊が背中を火傷していながら兵器を運び出しているのを手伝い、将校から軍医のところで二度目の油をつけてもらった。

寄宿舎についてしばらくすると、菰をまとった少年(一年生だった)が全身火傷しながらやってきて、学校は全滅し、御幸橋まで一〇数人で逃げてきたが動けず待っている、助けてくれと言う。彼を部屋に入れて寝かせ、御幸橋に行くと憲兵が、それらしい者はさっきトラックで県病院に運んだという。

県病はどこも負傷であふれ、足のふみばもなかったが、一中の生徒はいるかと大声で呼びかけるとわずかに手を上げる者がいた。寄宿舎(病院のすぐ近くだった)からタンカを持ちだし、病院からつれてきて寝かせた。さかんに水を欲しがるので、逃げる途中に氷をつんだトラックが横転していたのを見ていたので、バケツをもって取りに行き飲ませた。火傷のときは水を飲ますとダメとは聞いていたが、一年生は全身火傷でまともな皮フが見えないようだったので、五人で相談し、水を飲ませた。

その内四年生が帰ってきたので事情を説明し、後はいいからお前らも逃げて家に帰れといわれ、寄宿舎から離れた。一年生一〇数名はその後全員死亡したと聞かされた。

御幸橋を通り千田町の自宅に帰ったが家は倒壊していたので吉島町にあった父の勤務先の工場に火の中をくぐり抜けながらたどりつき、家族と会った。

左顔面の火傷で顔がはれ上り、髪は抜け、食べることもできず、水やカンズメの汁をのみ、一三日やっと故郷の岡山に逃げることができた。

広島駅までの途中、方々で遺体を焼く煙が上っていた。水面を埋めた死体、黒こげになった死体、どのくらいみたことだろう。
その後、白血球が減少し倉敷中央病院で、三回の輸血をしてもらった。(母、伯父、伯父)。
  

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