当時中学二年で昭和二〇年七月三一日までは学徒動員として天神町近辺にて建物疎開に従事していました。八月一日より、軍部と学校の命令により、学校警備隊に配属されました。条件は家から徒歩で一〇分以内で登校出来る者が選ばれました。上記の事から、私は爆心地より二キロメートル離れた崇徳中学前の土手にて直接後頭部全背面、両腕より手先まで、両足先を火傷しました。
B29の白い機体を仲間たちと共に発見、日本晴れの真青い空であったため、機体がかすんだりしました。
小学校五年末~六年生にかけて、唱歌の時間に敵機の爆音を聞きわける、録音での訓練がありましたので、一万米位の高度を飛んでいる、と判断もしていました。暫くすると、仲間が私たちの頭上に近づいて来る赤色の落下物に気付き、赤い降下傘のようなものが!と叫びました。私はその叫び声に従って視線を移すと、確かに、物体がぐんぐんと迫って来ていました。目の前が突然薄暗くなった時、危い!と言った命の危険を感じたので指で目と耳をおおうように動作に移る時、天空が真黄色に包まれ、その中にはピンポン球位の白い球体が無数に(アラレが降るように)迫って来ました。
体が土手に触れるのと、体全体が熱い!痛い!と二つ感覚が一つになった。表現出来ない苦しみが全身を包みました。一瞬、時間が静止したようにシーンとしたようでした。その場でもだえ苦しみました。そして息を吸おうとしても空気が体の中へ入って来ないのです。胸部に晒を強く巻き付けられたような絞めつけを感じました。一瞬、爆弾の直撃を受けたのかと思った程でした。その後、別の熱さを足先に感じたため、そろりと起き上って見るとズボンのすそが、燃えていたのです。一瞬手で消そうと思ったところ、両手は黒焦げていて、爪を境に焼けただれた皮フが、ぶら下っていました。どうする事も出来ないので再び太田川の水の中に入りましたが全身が寒さと痛さと傷のうずきで、一分間として水中に留まれず、土手にあがって、桜の木の下にうずくまったままになりました。悪寒、嘔吐、激痛等々の苦しみに陥入ったのでした。その後余病が二重にも三重にも襲い、危篤状態に度々追い込まれました。
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