国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
被爆体験について 
藤岡 久之(ふじおか ひさゆき) 
性別 男性  被爆時年齢 12歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 鶴見橋(京橋川) 
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
八月六日家屋疎開動員のため松川町鶴見橋のたもとの空家に入っていた。閃光が走る!後は判らない、時間がどれだけ経ったか判らない、「失神」していた。痛さが走る、重き桟で躰が自由にならない。大声で助けを求め叫び続けると、軍服姿の兵隊が声をかけてくれ、私を引張り出してくれた。

でも、足が痛くて歩けない。左足首打撲、右ももカスガイが突刺さる。周囲から炎が上がっている。鶴見橋も、燃えている。

電車線路に沿って比治山橋へ。途中、どこへ逃げたらよいか、たずねる婦人、水が欲しいと来る火傷の婦人、どの顔も黒く、ボロボロの衣服、焼けただれた手足、防火水槽のある所へ連れて行くといきなり水の中へ顔を突込み私はあわてて引き上げた。比治山橋から鷹野橋へ水かぶりながら我家へ(大手町九丁目日赤裏門前)。途中富士見町の広島文理科大学横より、軍服姿の兵隊がそこの書類秘密文書だから集めてくれと叫んでいるので手伝う。周囲は猛火、鷹野橋消防署もつぶれて消防車も動けない、この辺り火勢が強く動けない。水をかぶり我家の方へ、家の隣り印刷所、もはや火に包まれて炎焼中、我家も炎えている。家の前に手押し消防ポンプはあるが、一人ではどうすることも出来ない。

家の前で父、母を呼び、叫ぶが返事なし。南大橋へ行く、この辺りより道端へ多くの負傷者、火傷の人々が座ったり転がっている。軍刀を持った軍服の兵隊、子供、どれもうめきと叫び、ただ異様に黒い顔から白い目のみが光っている。

南大橋の川の中には沢山の魚が腹を上にして浮いているし、人体も無数に流れている。橋脚にも引掛っている、橋の上にも、多数の人がうめいている。

吉島飛行場迄父母を探し歩いたが見つからない。引き返し、千田町の山中高等女学校の竹ヤブの中より私を呼ぶ「声」「母の声」涙がどっと溢れる。

父は手、足、血まみれ、母、兄、弟、ケガなし、うれしかった!

竹ヤブの枝にぶら下がった火傷した人は「水」「水」「水」と叫んでいたが、だんだん声が小さくなり聞えなくなった。

川向かいの中国塗料ではドラム缶の爆発と共に火柱が上がる。一夜、川辺の空地で悪夢を見る。

八月七日、市役所前でニギリ飯がもらへるとのことで出向く。丸一日目の食事である。近所の伯父、家内を探すので来てくれと云うのでついて焼跡へ行くと伯父の勝手口に立ったままの白骨がある。「私の家内だ」と涙ぐみ、熱かっただろうと声をかけ白骨の手を握ると骨はくずれ落ちた。手を合わす。

今日は足が痛む、皆んなの食べ物を工面しないと思い大手町小学校へナンキンを植えていたことを思い行く。未熟のナンキンを持帰り焼跡のナベで水煮したものを食べる。校庭には黒コゲの小学生の屍がいくつか転がっている。伯父の所に私と同年のI君がいた。八時頃家を出て行ったので、もし、ケガをしていたら日赤へ来ているかもしれないので探してくれと云われて、日赤内を呼びながら探す。うめき声と叫び声との間をケガ人をふまないように歩く。この世の見る物ではない世界だ。目もそらしたくなる。結局伯父が探しだした。私が声をかけるとだまってうなずくだけ全身火傷だ。八月八日亡くなる。

八月八日足の痛みこらえて広島護国神社、広島城、軍司令部、相生橋、本川町、県庁等、焼跡の惨状を見る。広島城防空壕には屍が、川岸には人体が、街の中には黒く焼けて顔型のない屍が散乱。市電は脱線しその爆発風力の強さをうかがわせる。道には馬も転がっている。当時、軍の士官は馬で通っていた。

御幸橋を渡り比治山下を通り被爆した松川町へ。その家屋も全焼。的場、広島駅、八丁堀を回って紙屋町へ家へ帰る。どのビルも一応のぞいて見る。白骨化したものもあり、身元が判らないので可愛想。

近所のH君が全身火傷で亡くなる。ダビにするため材木や木片を集め、トタンを焼跡より取ってきて、手伝う。手を合わせて、くすぶっている焼跡より種火で火をつける。翌朝小さな骨になった。こんな悲しいことはない。骨ひろいをすませ残骨を川に流された。私達が昨年迄、一緒に泳いだ川に…

八月九日広島一中校庭へ。今日は食事に校庭よりさつま芋を。校庭にも黒こげの屍、目、ハナ、口にはウジ虫が一杯、白い歯だけが異様に見える。

先日、千田町を歩いていると釣道具屋の前に釣竿、道具が散乱、それを使って、川の魚を釣って食べる。その時は放射能を含んでいるとは、そんなことを思ったこともなかった。天応の伯母達が、戦災見舞いに来てくれた。食べ物がない時に米を持って来てくれてありがとう。私達の元気な姿に安心して帰って行く。

被爆後、私達は防空壕へ寝起きした。日暮れと共に焼跡にリンが燃え深夜おしっこして壕に入る時、後より呼ばれる気持ちになる。

八月一五日迄防空壕暮らし。八月一六日、草津の家へ行く。

平成七年五月より体調くずす。今年は五〇年、なんとなく複雑な気持。

白血球が高くなる。

原爆病院で精密検査受ける。

原爆とは……

戦争とは……

子供に話せないこと沢山ある。

体験記、原稿いくらあっても綴り切れない。

合掌
  

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針